パテート・ラーオ
パテート・ラーオ(ラーオ語:ປະເທດລາວ [1] 、 ラテン文字転写:Pathet Lao)は、1950年代から 1970年代にかけてのラオスにおける共産主義革命勢力。パテト・ラオとも表記される。
概要 [ 編集 ]
ラオ・イサラ [ 編集 ]
第二次世界大戦後、ラオスではレジスタンス組織
ネオ・ラオ・イサラ [ 編集 ]
亡命政府の一部はフランスに懐柔されラオス王国に協力したが、これに妥協しない旧ラオ・イラサの左派勢力は、ベトミンおよびインドシナ共産党に触発され、スパーヌウォン王子およびインドシナ共産党のカイソーン・ポムウィハーンを主導者として、1950年8月に「ネオ・ラオ・イサラ」(Neo Lao Issara、ラオス自由戦線) を組織し、反仏闘争を続けた。
パテト・ラオ [ 編集 ]
1953年、ネオ・ラオ・イサラの戦闘部隊であった「パテト・ラオ」は、ベトミンと協力してラオス北西部を支配下に置いた。南部では、ボロベン高原を中心とする
1954年、ジュネーヴ協定のラオス条項により、ラオスから外国軍は撤退。パテト・ラオは、自由選挙の確約を得るかわりに、中南部10省から撤収し北部2省に集結させられ、国際休戦監視委員会が停戦監視のために設置された。
ネオ・ラオ・ハク・サット
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1956年1月、ネオ・ラオ・イサラは「ネオ・ラオ・ハク・サット」(Neo Lao Hak Sat、ラオス愛国戦線) に改称、1957年にはラオス王国政府との統一政府樹立宣言を行い、ネーオ・ラーオ・ハク・サートの戦闘部隊であるパテート・ラーオは王国軍に編入された。
1958年、サムヌア、
ラオス内戦 [ 編集 ]
その後、親米
右派の
ベトナム戦争 [ 編集 ]
1960年代半ばからアメリカと南北ベトナムが介入、アメリカ軍は山間のホーチミンルートおよび平地のパテト・ラオ支配地域を猛爆し、内戦はさらに拡大、激化する。この時爆撃で使用されたクラスター爆弾の多くが不発弾化し、現在まで田畑と村落部に残る。
1970年3月21日、北部サムトン付近で政府軍を攻撃。この政府軍にはタイ陸軍の砲兵大隊が支援のため加わっており、パテト・ラオは多数のタイ軍兵士を殺害したと発表した。一方、タイ側は兵士を派遣していることを否定したため、国際問題化は避けられた [2] 。
1971年末には王国軍に対しパテト・ラオと中立派軍が軍事的に優勢となる。
1973年、 ラオス和平協定 が成立、アメリカ軍はベトナムから撤退し、パテト・ラオの軍事的優位が高まる。
1974年三派連合によるラオス民族連合が成立。1975年には
その後、中立派軍を吸収し
脚注 [ 編集 ]
- ^ ປະເທດは「国」、ລາວは民族としての「ラーオ族」、又は、集団としての「ラオス」を意味するため、ラオス語でປະເທດລາວは「ラーオ族の国」となり、本項の勢力のみを意味しない。実際にラオ語版ウィキペディアにおいて、 ປະເທດລາວ は、国家としての ラオス(ラオス人民民主共和国)の見出し語であり、本項の勢力の見出し語となっていない。
- ^ タイ軍と交戦 パテト・ラオ『朝日新聞』1970年(昭和45年)3月22日朝刊 12版 3面
- ^ 日本共産党中央機関紙編集委員会(編)「ラオス人民民主共和国の樹立」『世界政治資料』第467号、日本共産党中央委員会、1975年12月25日、2頁、NDLJP:1409577/3。
- ^ 「樹立されたラオス人民民主共和国(世界と日本) / 三浦 一夫」『 前衛 : 日本共産党中央委員会理論政治誌』第391号、日本共産党中央委員会、1976年2月1日、246 - 249頁、NDLJP:2755824/128。