フェルキッシャー・ベオバハター
『フェルキッシャー・ベオバハター』(独:
Völkischer Beobachter
, 「
概要 [ 編集 ]
「大ドイツ国家社会主義運動の闘争紙」(Kampfblatt der nationalsozialistischen Bewegung Großdeutschlands)と称した本紙は、ミュンヘンの肉屋ギルドの業界紙だった『
ミュンヒェナー・ベオバハター
』(
Münchener Beobachter
)
[3]
を、1918年にトゥーレ協会が買収し、1919年8月に『フェルキッシャー・ベオバハター』に改名したことに始まる。ナチ党は1920年12月にディートリヒ・エッカートの主導で本紙を買い取り、
発行部数は最初約8,000部だったが、1923年秋のルール占領中、人気が高まり25,000部に増えた。この年、エッカートの死去に伴い
本紙の記事の中で、おそらくもっとも悪名高いものといえば、1940年6月6日の占領下ポーランド総督ハンス・フランクへのインタビューである。
チェコスロバキアで7人のチェコ人学生への死刑宣告が広く公表された件に関して、彼はこう語った。「もし私が7人のポーランド人の銃殺を命じたというようなことを毎回ビラを配って通知しなければならないとしたら、必要な紙を用意するだけの木がポーランドの森には無い。」 [5] — Józef Czapski (1987). The Inhuman Land. London: Polish Cultural Foundation. ISBN 0 85065 164 6 306ページ
戦争の末期になると、連合国軍の侵攻で発行は次第に困難となった。最後の号は南ドイツにおいて1945年4月30日に印刷されたものが確認されているが、アメリカ軍の侵攻によって発行は行われなかった [4] 。
脚注 [ 編集 ]
- ^ 世界大百科事典 第2版 コトバンク. 2018年7月16日閲覧。
-
^
河面佑 2008, p. 45. - ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク. 2018年7月16日閲覧。
- ^ a b c バイエルン歴史事典.
-
^
Norman Davies (2003).
Rising '44. London: Macmillan. pp. 84.
ISBN 978-0333905685 ではオリジナルの引用が翻訳されている: 「プラハでは、大きく赤いポスターがその7人のチェコ人が今日射殺されたことがわかるように掲示される。私は自分自身に言う。『もし私が7人のポーランド人を射殺する度にポスターで公表しなければならないなら、ポーランドの森はその紙を作るに充分でない。』」
参考文献 [ 編集 ]
- Völkischer Beobachter – Historisches Lexikon Bayerns- バイエルン歴史事典 のフェルキッシャー・ベオバハターの項
- 河面佑「政権獲得以前のナチス・プロパガンダにおける新聞の役割 -その実態とイメージについて-」『早稲田大学大学院文学研究科紀要 第4分冊』第53巻、早稲田大学大学院文学研究科、2008年2月、45-59頁、 CRID 1050282677443648768、 hdl: 2065/31924 、 ISSN 1341-7541。
関連項目 [ 編集 ]
- デア・アングリフ - ベルリン大管区指導者 ヨーゼフ・ゲッベルスによって発刊された機関紙
- シュテュルマー - ユリウス・シュトライヒャーによって発刊された機関紙
- ダス・シュヴァルツェ・コーア - ナチスカジノ 北海道の機関紙