アリシア・デ・ラローチャ
アリシア・デ・ラローチャ | |
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基本情報 | |
生誕 | 1923年5月23日 バルセロナ |
死没 | 2009年9月25日バルセロナ |
職業 | ピアニスト |
アリシア・デ・ラローチャ・デ・ラカジェ(Alicia de Larrocha de la Calle,
1923年
5月23日
-
2009年
9月25日)は、
人物 [ 編集 ]
カタルーニャ州 バルセロナ生まれ。音楽一家であり、父親はバイオリン、母親と叔母はエンリケ・グラナドスの生徒だった。読み書きを覚える前に音符を覚え、叔母のピアノ演奏を聴いた後、すぐにそれをピアノで自ら演奏したことから、神童と言われ、3歳の時点で、地元バルセロナでグラナドスの愛弟子であるフランク・マーシャルに師事することになった。5歳の時に、バルセロナ万国博覧会 にて初舞台を踏んで、翌年にはカタルーニャ音楽堂にて、ベートーヴェン、グラナドス、シューマンからなるプログラムでデビューし、驚くべき解釈の成熟さで大衆と批評家に大きな感銘を与えた。1947年に、カナリア諸島やモロッコでの公演、ローザンヌでの大成功を経て、国際的に活躍するようになり、ヨーロッパ各地のオーケストラと共演した。1950年には、同じくピアニストのジョアン・トーラと結婚。トーラは妻を助けることに専念するために、自らのピアニストとしてのキャリアは諦めて、妻を献身的に支え続けた。2人の間には二人の子供がいる。とは言え、ラローチャの名前が真に国際的に不動のものとなるのは、1954年にアメリカでデビューをしてからである。60年代には、年間120回を超えるコンサートやリサイタルに出演するなど、積極的な活動を晩年になるまで続けた。1974年、1975年、1988年、1991年にはグラミー賞を受賞。活動に制限をかけ始めたのは2000年になってからで、2003年には世界各地で引退コンサートやリサイタルを行った。
アルベニスやグラナドス、ファリャ、
1978年のインタビューでは、「私は、人生におけるいかなるものにおいても「最高」があるとは思いません。 しかし、グラナドスはスペインの偉大な作曲家の一人であり、私の意見では、真のロマン派の風味を捉えた唯一の作曲家だと思います。 彼のスタイルは貴族的でエレガントで詩的で、ファリャやアルベニスとはまったく異なったものです。 同じスペイン音楽といっても、私にとっては、それぞれが別の世界に位置しています。 ファリャはジプシー音楽の精神を真に捉えた人でした。 そしてアルベニスは他の作曲家達よりも国際的だったと思います。 彼の音楽はスペイン風ですが、スタイルは完全に印象派です。」と述べている [4] 。
独奏曲だけでなく、モーツァルトのピアノ協奏曲を得意として録音もしており、カーネギー・ホールでの引退コンサートでも、室内楽版を演奏した。
脚注
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- ^ “Renowned Spanish pianist de Larrocha dead at 86” (英語). Reuters. (2009年9月26日) 2023年9月9日閲覧。
- ^ “Alicia de Larrocha, Renowned Pianist, Dies at 86 - TIME”. web.archive.org. 2023年9月9日閲覧。
- ^ 株式会社ローソンエンタテインメント. “アリシア・デ・ラローチャの芸術(7CD)”. HMV&BOOKS online. 2023年9月9日閲覧。
- ^ Kozinn, Allan (2009年9月26日). “Alicia de Larrocha, Pianist, Dies at 86” (英語). The New York Times. ISSN 0362-4331 2023年9月9日閲覧。