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カリストゥス3世 | |
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第209代ローマ教皇 | |
教皇就任 |
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教皇離任 | 1458年 8月6日 |
先代 | ニコラウス5世 |
次代 | ピウス2世 |
個人情報 | |
出生 |
1378年
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死去 |
1458年8月6日 教皇領 ローマ |
子 | フランチェスコ |
その他のカリストゥス |
カリストゥス3世(Calixtus III、
生涯 [ 編集 ]
スペイン・バレンシアのシャティバで誕生。生まれた年に教会大分裂が始まり、
アヴィニョン
対立教皇
クレメンス7世の側近ペドロ・デ・ルナ(後の対立教皇ベネディクトゥス13世)の補佐
やがて外交官としてアラゴン王アルフォンソ5世に仕え、ベネディクトゥス13世が教会大分裂終息に伴い孤立していく中宮廷に軸足を移し、1429年にベネディクトゥス13世の後任の対立教皇クレメンス8世の退位に功があったとしてローマ教皇
1455年、ニコラウス5世の没後のコンクラーヴェで選出、カリストゥス3世を名乗った。彼の選出はコンクラーヴェで争ったオルシーニ家とコロンナ家の妥協案として、76歳の老齢で痛風に苦しみ余命いくばくもないと思われていたため、中継ぎとして決められた結果であった [2] [4] 。
治世ではスペイン出身者を周囲に集めたため、ローマ市民を憤慨させたという。自身の出世を予言したフェレールを列聖、ジャンヌ・ダルクの復権裁判を行い裁判判決を覆す一方でネポティズムも行い、 1456年に2人の甥を枢機卿に登用した。妹イサベルの息子ロドリーゴ・ボルジア(後のアレクサンデル6世)と姉カタリーナの息子ルイス・フアン・デ・ミラを枢機卿に登用しただけでなく、ロドリーゴの弟ペドロ・ルイスを教会軍総司令官、スポレート公に任じて大衆の怒りを増大させた [2] [5] [6] 。
また、ニコラウス5世は十字軍に充てるべき費用を教会の修復や芸術、文芸に費やしたとして非難したといい、独自に艦隊を編成しエーゲ海へ派遣、トレビゾンド帝国の
教会内部でも不祥事が起こり、
1458年6月27日にアルフォンソ5世が死亡、庶子フェルディナンドへのナポリ継承を認めなかったことでナポリをボルジア領にするのではないかとの噂が流れたが、8月6日にカリストゥス3世が79歳で没したため、ボルジア家に対するローマ市民の怒りが爆発して暴動が起こり、ボルジア家を始めスペイン人はローマを逃げ出し、ペドロ・ルイスは逃亡した後急死した。しかしロドリーゴはローマへ引き返し、次の教皇ピウス2世を支持したため地位を保ち、教皇庁で勢力を固め始めた [2] [5] [9] 。
脚注 [ 編集 ]
- ^ クルーラス、P12 - P15。
- ^
a
b
c
d e バンソン、P139。 - ^ クルーラス、P15 - P28、バンソン、P135。
- ^ クルーラス、P34 - P36、スチュアート、P189。
- ^ a b スチュアート、P190。
- ^ クルーラス、P36、P41 - P45。
- ^ クルーラス、P45 - P53、堀越、P120、P176 - P177、スチュアート、P189 - P190。
- ^ クルーラス、P62。
- ^ クルーラス、P53 - P56。