グリゴリー・ジノヴィエフ
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グリゴリー・エフセーエヴィチ・ジノヴィエフ(ロシア語: Григо́рий Евсе́евич Зино́вьев 、ラテン文字転写: Grigorii Yevseevich Zinoviev 、1883年 9月23日(ユリウス暦9月11日) - 1936年 8月25日)は、ロシアの革命家、ソビエト連邦の政治家。
人物概要
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本名オフセル・ゲルション・アロノフ=ラドムイスリスキー、またはオフセーイ=ゲルショーン・アアローノヴィチ・ラドムィースリスキイ; Овсей-Гершен Ааронович Радомысльский ;Ovsel Gershon Aronov Radomyslsky)。また、母の旧姓アプフェリバウム(Апфельбаум)を用いたヒルシュ・アプフェルバウム(Hirsch Apfelbaum)の名でも知られる。ユダヤ系 ロシア人。
ウラジーミル・レーニンの側近としてロシア革命に参加。ソビエト政権発足後は、ペトログラード・ソビエト議長、コミンテルン議長、 共産党政治局員を歴任したが、スターリンとの権力闘争に敗れ、後に処刑された。
多くの著作(レーニン礼賛が中心となっている)とレーニンの死後に執筆した回想録を残しているが、そのほとんどはソ連崩壊までアーカイブに封印されていた。アナトリー・ルナチャルスキーは「レーニンのシルエット」と呼んだ。反対派からは「レーニンのお太鼓持ち」と揶揄された。
生い立ちと経歴 [ 編集 ]
1883年
9月11日(グレゴリオ暦で9月23日)、
ジノヴィエフは、少年時代から革命運動に参加し、長じてロシア社会民主労働党に入党。1902年、スイスのベルンに亡命、パリでも活動し出入国を繰り返す。この間ベルン大学化学部・法学部に学ぶ。1903年、ボリシェヴィキ創設時からのメンバーとなり、レーニンの最も親密な同志の一人として「レーニンの副官」と呼ばれた。1906年社会民主労働党サンクトペテルブルク委員会のメンバーとなり、新聞「前進」誌の編集部員や労組でのオルグ活動で活躍する。党中央委員に選出されるが、1908年に逮捕。しかし、病気を理由に釈放され、亡命。
レーニンは、十月蜂起のジノヴィエフの行動には激怒し、『我々は彼らをもはや同志とは認めない』とまで言って党除名を要求したほどであった。しかし、ジノヴィエフはレーニンに忠誠を誓い、人民委員会議に入閣こそしなかったが、 ペトログラード・ソビエト議長に就任する。ジノヴィエフは、ブレスト=リトフスク条約調印などの問題ではレーニンを支持した。1919年、コミンテルン執行委員会議長に選出され、コミンテルンの規約制定の中心となる。同年党政治局員となる。レーニンは遺書で、「ジノヴィエフとカーメネフについて言えば、彼の十月における振る舞いは偶然ではないが、それを政治的に誇張することはしてはならない」と記した。
レーニンの晩年から政治局でスターリン、カーメネフと同盟を結び、三人組(トロイカ)を組んでトロツキーと対立し、結果としてトロツキーの失脚と国外追放に関与することになる。1924年にレーニンが死ぬと、ジノヴィエフは党の最高実力者の一人となるが、その一方でスターリンが書記長として権力を集中していることに危惧を覚え、1925年レニングラードの党組織を中核とした「新しい反対派」を組織する。第14回共産党大会では、スターリンの「一国社会主義論」に反対、党の非民主的な指導と官僚主義的統制を批判し、対立していたトロツキー及びトロツキー派と「合同反対派」を結成した [1] したが、すぐさま切り崩しを受けた [2] 。時既に遅く1926年政治局員とコミンテルン議長を解任され、党を除名された。翌1927年の党大会で自己批判した。 1928年1月2日までに中央執行委員会からも除名処分 [3] 。1月15日までに反革命行為を理由にタンボフに流刑処分となった [4] が、その後に復党する。カザン大学学長、共産党機関誌「ボリシェヴィーク」編集部員を務めるが、1932年再度党を除名、カルーガに追放される。1933年復権しモスクワに帰還を許可され、ソ連消費組合中央連合幹部会員に選出される。1934年第17回党大会では演説でスターリンを指導者として讃えた。
しかし、
死を悟ったジノヴィエフは、処刑される直前、同じく囚われの身のカーメネフに「イタリアと同じことがおきた」と心情を打ち明けた。カーメネフは「よせ、威厳を持って死んでいこう」と返答したのに対し、ジノヴィエフはイタリアのベニート・ムッソリーニがローマ進軍で政権を奪取した例を出し「ここソビエトでもファシストがクーデターを起こした」と述べ、嘆いたとされる。
助命嘆願を拒否されたジノヴィエフ(裁判官ヴァシリー・ウルリヒへはGPU副局長ヨシフ・ウンシュリフトから『いかなる助命嘆願も拒否せよ』と指令が出されていた)は、判決が下された翌25日未明の深夜2時に(銃殺刑のために)将校から独房から出るように命じられるが、彼はその場で激しく抵抗し同伴していた兵士のピストルで射殺された。52歳だった。
死後 [ 編集 ]
ジノヴィエフの家族も有罪となり殺害され、彼の血筋は途絶えた。死から52年後の1988年にペレストロイカに伴い、「歴史の見直し」の一環として名誉回復された。
脚注 [ 編集 ]
- ^ 「トロツキーとジノビエフが党の政策を攻撃」『時事新報』1926年10月5日(大正ニュース事典編纂委員会『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編p.357 毎日コミュニケーションズ 1994年)
- ^ 「反対分子を一掃、スターリンのひとり舞台」『東京朝日新聞』1926年10月26日(大正ニュース事典編纂委員会『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編p.357 毎日コミュニケーションズ 1994年)
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^ 「中央執行委員からも除名」『東京日日新聞』1928年1月4日(昭和ニュース事典編纂委員会 『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p.362 毎日コミュニケーションズ刊 1994年) - ^ 「トロツキーら反革命で流刑」『東京朝日新聞』1928年3年1月18日(昭和ニュース事典編纂委員会 『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p.362 毎日コミュニケーションズ 1994年)
参考資料 [ 編集 ]
- 『レーニンの秘密』(上・下)、ドミトリー・ヴォルコゴーノフ、NHK出版、1995年
- 『スターリン-赤い皇帝と廷臣たち』(上・下)、サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ、染谷徹訳、白水社、2010年、上巻 ISBN 978-4-560-08045-0、下巻 ISBN 9784560080467