コーチシナ
コーチシナ(フランス語: Cochinchine française/交趾支那)は、フランス統治時代のベトナム南部を指す歴史的呼称。阮朝ベトナムの行政区分におけるナムキ( ベトナム語:Nam Kỳ / 南圻 )に相当し、独立後のベトナムでは ナムボ(南部) ( ベトナム語:Nam Bộ / 南部 )と呼ばれている。
フランスは支配下に置いたコーチシナでプランテーションを開始し、天然ゴムなどを安定供給することが可能となった。
名称 [ 編集 ]
交趾は元来ベトナム北部の「交趾郡」に由来する古称であったが、フランスが恣意的に使用した名称である。ヨーロッパ各国からはコーチンシナ(英:Cochin China ないし Cochinchina [ˌkoʊtʃɨnˈtʃaɪnə] , 仏:la Cochinchine [la kɔʃɛ̃ʃin] )と呼ばれた。
歴史 [ 編集 ]
コーチシナ戦争 [ 編集 ]
コーチシナ総督府 [ 編集 ]
翌年6月の講和条約である第1次サイゴン条約で元々の所有者だったフエの阮朝宮廷に対し、これらコーチシナ東部三省とプロコンドル島(Côn Đảo、Poulo Condor [1] )を割譲させた。サイゴンに設置されたコーチシナ総督府が以後、フランスのベトナム侵略の拠点となる。フランスは1863年に カンボジアを保護国とする条約を結んでおり、仏領コーチシナをカンボジアと連結させるため、1867年ヴィンロン、チャウドク、ハティエンのコーチシナ西部三省を武力占領してコーチシナ全域を支配下に置いた。
フランス保護領コーチシナ
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ベトナム宮廷は1874年の第2次サイゴン条約でコーチシナ六省に対するフランスの完全な主権を承認し、直轄領としてのコーチシナ植民地が正式に成立する。また1883年の 癸未条約 (アルマン条約)によってアンナンよりビントゥアン省が割譲され、コーチシナに編入されている。
仏領インドシナ [ 編集 ]
1887年には新設のインドシナ総督の下で直轄領コーチシナ、保護国アンナン、保護領トンキンを含む仏領インドシナ(インドシナ連邦)が成立した。
コーチシナ蜂起 [ 編集 ]
コーチシナ共和国 [ 編集 ]
1945年に
だが、1948年にベトナム国樹立の動きが本格化すると、コーチシナ共和国は自治を前提としたベトナム国への統合を決定し、1949年にベトナム国へ併合された。
脚注 [ 編集 ]
- ^ en:Con Dao Prisonがあった。