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パリのノートルダム大聖堂(2013年)
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英名 | Paris, Banks of the Seine | ||
仏名 | Paris, rives de la Seine | ||
登録区分 | 文化遺産 | ||
登録基準 | (ⅰ),(ⅱ),(ⅳ) | ||
登録年 | 1991年 | ||
公式サイト | 世界遺産センター (英語) | ||
地図 | |||
使用方法・表示 |
座標: 北緯48度51分11秒 東経2度20分59秒 / 北緯48.853度 東経2.3498度
パリのノートルダム大聖堂
(パリのノートルダムだいせいどう、仏: Cathédrale Notre-Dame de Paris、ノートルダム寺院とも)は、ゴシック建築を代表する建物であり、フランス、
パリのノートル・ダム大聖堂の正面に向かって左側のポルタイユ(正面)には、聖母マリアの聖母被昇天の主題が取り上げられている。中段では聖母マリアが地上における生を終える場面が描かれ、上段でキリストから祝福を授けられている聖母マリアが鎮座している。キリストを中心にして天使や聖人たちが描かれており、過去、未来、未来という崩れた構成となっている。
2019年 4月15日夜(現地時間)に大規模火災が発生し尖塔などを焼失した [2] [3] 。翌日16日午前に消火活動により鎮火した [4] 。同日にバチカンのフランシスコ教皇も「ローマ・カトリック教徒およびパリ市民のために祈っている」と声明発表している [5] 。
建物 [ 編集 ]
外観 [ 編集 ]
ノートルダムの敷地は、ローマ時代にはユピテル神域であったが、ローマ崩壊後、キリスト教徒はこの地にバシリカを建設した。1163年、司教モーリス・ド・シュリーによって、現在にみられる建築物が着工され
[1]
、
全長128m、幅48m、高さ91m、内部の身廊の天井高32.50mと、それまでにない壮大なスケールの大聖堂が完成した。全体の色合いから、白い貴婦人とも称されている [6] 。
1789年に始まった
ファサードを装飾する彫刻、屋根の塔、その他多くの部分は、19世紀のゴシック・リヴァイヴァル期にウジェーヌ・エマニュエル・ヴィオレ・ル・デュクによって大幅に改装されたものである。1831年のヴィクトル・ユーゴーの小説『ノートルダム・ド・パリ』(「ノートルダムのせむし男」)の舞台になった。
着工当初は、世はいまだロマネスク様式が優勢だったので、ファサードの一部、すなわち、正面向かって右側のポルタイユ(主要入口)にロマネスク的な痕跡があって、半円形アーチをポインテッド・アーチにむりやり改造したような跡がある。また、身廊と側廊を隔てるアーケードを支える柱として、一部にロマネスク的な太い一本の円柱となっている部分が見られる。これらは着工してまもなく建てられたもので、のちに建造されたものでは、複数の円柱を組み合わせたピア(束ね柱)の形式になっている。
一方、ヴォールトを下からみると、アーチが×印状に交差する四分ヴォールトだけではなく、中央を横切るアーチがもう1つ加わり*印状になったものが多用されている。これは六分ヴォールトと呼ばれるもので、初期のゴシック建築によくみられた。中期以降のゴシックではより簡素な四分ヴォールトを連ねた構造が採用されることが多い。
以上のように、パリのノートル・ダム司教座聖堂は建築様式の観点からは、ロマネスク様式のテイストを一部に残した初期ゴシック建築の傑作といえる。一般に、ゴシック聖堂は完成までに数十年から数百年を要するため、各時代ごとに微妙に異なる様式が混在している場合が多い。
それも、基本的に左右対称形を志向しながら、左右で建造年代が違うために細かいところでは微妙に異なる場合もある。ポルタイユやステンド・グラスに何が描かれているのかという視点である。ゴシック建築は彫刻やステンド・グラスを駆使して、聖書や聖人伝のさまざまなエピソードを表現している。パリのノートル・ダム大聖堂では、とりわけ、3つの薔薇窓のステンド・グラスと正面ファサードの3つのポルタイユの上のレリーフが重要である。
塔上部の回廊の手すりには、キマイラ(シメール)の彫刻が魔除けとして据え付けられている [7] 。
壁面構成 [ 編集 ]
下方から、大アーケード、トリビューン(階上廊)、高窓の3層構造となっている。水平的分割線が見られず、分断されることなく上昇する小円柱群が目立ち、垂直線が強調されている。初期ゴシック建築では、4層式(大アーケード、トリビューン、側廊側の上部通路トリフォリウム、高窓)が一般的であった。そのため、ノートルダム大聖堂も創建当初は4層構成にされており、トリビューンと高窓の間にもう一つの層があった。しかし、ノートルダム大聖堂の場合、左右の側廊が二重で五廊式バシリカ形式であるため [8] 、中央身廊部に十分な光が入ってこなかった。そのため13世紀初め、外光をより取り入れるために、高窓部分を拡張し、3層構成に改造された。こうして、13世紀の大聖堂では例外的に、トリビューンを残し、採光のため高窓を下の層まで大きく伸ばし中間層が取り除かれた構造となった。側廊が二重にされ、またトリビューンもあえて残されたのは、多くの人びとを収容したいという思いからだと考えられている。実際に、大聖堂内には9000人をも収容でき [9] 、トリビューンには1500人もの人々が昇れるようになっている。
象徴的建造物 [ 編集 ]
パリから各地への距離を表すときの起点( 道路元標)はノートルダム大聖堂の前が起点(ポワン・ゼロ)となっている。
世界的に著名な歴史的建造物であり、歴史的にも多くの祝賀行事や記念式典などが開かれてきた [10] 。
- 1302年 4月10日、フィリップ4世の招集による第一回全国三部会開催。
-
1455年
11月7日、ジャンヌ・ダルク復権裁判開始。 - 1804年 5月28日に帝政を宣言したナポレオン・ボナパルトの戴冠式は1804年 12月2日にノートルダム大聖堂で行われた。
- 2015年 11月15日にパリ同時多発テロ事件の追悼ミサが開かれ、大聖堂前の広場にも大勢のパリ市民が集まった。
その他 [ 編集 ]
建物の所有権はフランス政府が有すものの、カトリック教会の使用権が認められている [11] 。
歴史 [ 編集 ]
建設 [ 編集 ]
ノートルダム大聖堂の歴史は、1163年、国王ルイ7世臨席のもと、ローマ教皇アレクサンデル3世が礎石を据えたことに始まる [10] 。建築工事の大半は司教モーリス・ド・シュリーとその後継者オドン・ド・シュリーが指揮を執って進められた [10] 。
- 1163年〜1177年内陣の建造(1182奉献)
- 1180年〜身廊(五廊式)の建造
- 1196年 司教モーリス・ド・シュリー死去、西側の梁間を除き、ほぼ完成
- 1200年〜 後継者ユード・ド・シュリーによる、西正面ファサードの建造
- 1220年 「王のギャラリー」の層まで
- 1225年バラ窓の層まで
- 1240年 北塔(高さ地上63m)
- 1250年 南塔、全面完成
12世紀末から13世紀前半にかけてノートルダム寺院は「西洋最大のカトリック教会」とみなされた [10] 。
修復 [ 編集 ]
1789年のフランス革命以降、自由思想を信奉し宗教を批判する市民により、大聖堂は「理性の神殿」と改められ、オペラ形式の理性の祭典が行われたり、キリスト教会への破壊活動・略奪が繰り返されていた
[12]
。
その後、ヴィクトル・ユーゴーの『ノートルダム・ド・パリ』の出版が、国民全体に大聖堂復興運動の意義を訴えることに成功し、1843年、ついに政府が大聖堂の全体的補修を決定した。1844年、ジャン・バティスト・ アントワーヌ・ラシュスとウジェーヌ・エマニュエル・ヴィオレ・ル・デュクに委任が決まり、1845年に修復が開始された。1857年、共同修復者のラシュスが死去。その後はヴィオレ・ル・デュク単独の作業となった。
ヴィオレ・ル・デュクは、1330年のノートルダム大聖堂を想定し、その完全なる復元に努めた。大規模な修復の一つが、大聖堂の交差部にあった尖塔の復元である。この尖塔は落雷でたびたび炎上し、倒壊の危険があるため1792年に一時撤去されたが、ヴィオレ・ル・デュクらが修復に乗り出した。ヴィオレ・ル・デュクによる尖塔の復元案は、全体の高さを以前よりも約10m高く設定し、デザインもより豊かなものとなった。さらに、最も大きな変更として、尖塔基部を囲んで福音史家と十二使徒の彫刻が付加された。ヴィオレ・ル・デュクは聖トマ像のモデルとなり、自らデザインした尖塔を見上げるポーズを取っている。
その後の改修工事
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着工850周年プロジェクト [ 編集 ]
ノートルダム大聖堂は2013年に着工850周年を迎え、そのプロジェクトの一環として北塔と南塔の鐘の鋳造やノートルダム大聖堂前の広場の整備、屋内照明の改修などが行われた
鐘の鋳造は大聖堂の18世紀末の鐘を再現するもので、マンシュ県のコルニーユ・アヴァール鋳造所とオランダのロイヤル・アイスバウツ鋳造所で9基の鐘(銅・錫製で重さ6トン)が鋳造された [10] 。その費用の200万ユーロは全額寄付金で賄われ、鐘は2013年3月23日に披露された [10] 。
大規模火災の発生
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2019年 4月15日の夕方に大規模火災が発生し、屋根の尖塔が崩落した [3] [2] [13] 。フランスのメディアでは、現地で実施されていた改修工事による火災の可能性があると報じられている [2] 。寺院に保管されていた文化財・美術品の一部は、消防士により運び出されるなどして焼失を免れたと発表された [14] 。巨大なパイプオルガンも無事だった。
ギャラリー [ 編集 ]
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パリの街並と大聖堂
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南ファサード、2017年
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夜の大聖堂
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夜の大聖堂、2001年
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南側のバラ窓
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バラ窓のステンドグラス
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西から東に見た身廊
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内装、ルイ 13 世とルイ 14 世のひざまずく像があるノートルダム大聖堂の主祭壇
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2019年4月の火災の様子
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ウサギに追いかけられる人物を描いたこのファサードはモンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイルに登場するカルバノグの殺人ウサギのモデルとなった
脚注 [ 編集 ]
- ^ a b 布施英利『パリの美術館で美を学ぶ ルーブルから南仏まで』光文社、2015年、103頁。 ISBN 978-4-334-03837-3。
- ^ a b c 「 パリ・ノートルダム大聖堂で火災、尖塔崩れ落ちる」『日本経済新聞』、2019年4月16日。2019年4月15日閲覧。オリジナルの2019年4月16日時点におけるアーカイブ。
- ^ a b “仏ノートルダム寺院で大規模火災 尖塔が崩壊”. AFPBB News. (2019--04-16) 2019年4月16日閲覧。
- ^ “ノートルダム寺院の火災が鎮火、パリ消防当局”. フランス通信社(AFP BB NEWS) (クリエイティヴ・リンク). (2019年4月16日). オリジナルの2019年4月16日時点におけるアーカイブ。 2019年4月16日閲覧。
- ^ “「フランスに寄り添う」ローマ法王が声明、ノートルダムの火災受け”. フランス通信社(AFP BB NEWS) (クリエイティヴ・リンク). (2019年4月16日). オリジナルの2019年4月16日時点におけるアーカイブ。 2019年4月16日閲覧。
- ^ “パリの美しい教会&寺院6選”. 山ノ手ホテル (2017年8月7日). 2018年3月11日閲覧。
-
^
『パリ まっぷるマガジン 海外』
昭文社、2016年、23頁。 ISBN 978-4-398-28129-6。 - ^ 中島智章『世界で一番美しい天井装飾』エクスナレッジ、2015年、110頁。 ISBN 978-4-7678-2002-6。
- ^ ジョン・バクスター『二度目のパリ 歴史歩き』ディスカヴァー・トゥエンティワン、2013年、199頁。 ISBN 978-4-7993-1314-5。
- ^ a b c d e f g アニック・ビアンシニ. “”. 在日フランス大使館. 2019年4月15日閲覧。
- ^ “ノートルダムはなぜフランスを代表する大聖堂になったのか”. GLOBE+ (2019年4月17日). 2019年6月24日閲覧。
-
^
山上正太郎. “理性の崇拝”. コトバンク . 日本大百科全書(ニッポニカ). 2019年6月13日閲覧。 - ^ “パリのノートルダム大聖堂で火災”. NHKニュース. 日本放送協会. 2019年4月15日閲覧。
- ^ “ノートルダム大聖堂、聖遺物「いばらの冠」と「聖ルイのチュニック」を炎の中から運び出す”. ハフポスト日本語版. (2019年4月16日). オリジナルの2019年4月16日時点におけるアーカイブ。 2019年4月16日閲覧。
参考文献 [ 編集 ]
- 羽生修二『ヴィオレ・ル・デュク [歴史再生のラショナリスト] 』 鹿島出版会 1992年
- 馬杉宗夫『パリのノートルダム』 八坂書房 2002年
- 佐藤達生『西洋建築の歴史美と空間の系譜』 河出書房新社 2005年
- 中島智章『パリ名建築でめぐる旅』 河出書房新社 2008年
関連項目 [ 編集 ]
- フランスの世界遺産
- 世界遺産の一覧 (ヨーロッパ)
- ノートルダム聖堂
- ノートルダム・ド・パリ - ヴィクトル・ユーゴーの小説。かなり荒廃し破壊の憂き目にあった聖堂に人々の関心を集める為に執筆された。その結果、1844年から1864年にかけて大改修されることとなった。
- ジークムント・フロイト - 1885年に留学に来た際に観光で立ち寄り、美しさに感動してここの塔に2度上り、後の妻となる女性に聖堂の写真を土産にした。
- ノートルダム 炎の大聖堂 - ノートルダム大聖堂の火災を描いた2022年の映画。
外部リンク [ 編集 ]
- ノートルダム大聖堂公式サイト フランス語と英語
- ノートルダム大聖堂の火災:報道撮影取材のロケ現場からの写真
- パリ・ノートルダム大聖堂と首里城 - WEB展覧会(九州大学)