パンチパーマ

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黄色いセーターの人がパンチパーマのコスプレをしている。

パンチパーマとは、小さなカールをかけた パーマで、髪型の一つ。パンチと略されることが多い。

概要 [ 編集 ]

若い女性向けの緩やかなウェーブと対照的に、男性や高齢女性向けの硬いカールがかかった短髪のパーマである。アフロヘアーとは縮毛・成形という点において類似するが、長さが異なる。汗をかいても髪型が崩れにくく洗髪が便利なため、かつてはプロオンラインカジノ 総取り型ボーナスボクシングゴルフなどのスポーツ選手にも人気があったが、独特のイメージが定着した現在では見かけることが少なくなっている。

1970年代北九州市在住の理容師・ 永沼重己が黒人の髪形をヒントにして考案した [1] 。約160℃のヘアーアイロンを髪に当て、手首を回してパーマをかける。髪の多い人で巻く回数は約600回 [1] 。永沼本人は「これ以上はない」という気持ちから「チャンピオンプレス」と名づけた。パンチパーマの名称の由来は、当時、大流行した雑誌、 平凡パンチにあやかって、関西の理容器具商社によって「パンチパーマ」と名付けられた [2] 。そして、「カットハウス良の店」の代表である泥谷良一(ひじや りょういち)が広めた。

理容室

1970年代当時、若者のアイドルとして台頭したグループ・サウンズ吉田拓郎などの フォーク勢の多くは長髪で、それに憧れた若者も多く真似て髪を伸ばした。長髪の流行により理髪店は売上が低迷、それに危機感を覚えた全国理容生活環境衛生同業組合連合会(全理連)は緊急プロジェクトチームを結成し、ファッション性の高いショートヘアスタイルの開発に乗り出した [3]

全理連が開発したパンチパーマは目論見どおり若者の間で流行した。普及に貢献したのは、1976年に「失恋レストラン」でデビューした歌手の清水健太郎である。パンチパーマで、シャイで硬派なイメージで売り出された清水健太郎はアイドルとなり、それに憧れた若者の多くも真似てパンチパーマとなった。形が崩れにくいことから、仕事でヘルメットや帽子をかぶる建設業などの人々にも好まれた [4]

パンチパーマはプロオンラインカジノ 総取り型ボーナス選手の間でも流行し、中でも広島東洋カープの選手に好まれた [5] [6]

しかし 1980年代になると、バブル期を中心に「見た目に威圧感がある」「喧嘩の際に髪の毛が捕まれにくい」などの理由で、パンチパーマを暴力団関係者の多くが好んだ。このためパンチパーマは ヤクザのイメージとして定着し、「いかつい」「怖い」という印象が浸透した。テレビや映画で登場する悪役の多くがパンチパーマであることも、印象の悪さに拍車をかけた [7] 。単に髪型がパンチパーマというだけの善良な一般市民のキャラクターでも、「外見が怖いが根はいい人」といった書かれ方をすることが多く、印象の悪化に拍車がかかった。プロレスラーのラッシャー木村が、外見を理由にタクシーに乗車拒否されるなど、印象によって被害を受けたケースもある。

パンチパーマを広めた泥谷は、 厚生労働省から2021年度の「卓越した技能者」に選ばれ、2023年秋に黄綬褒章を受章した。

発祥 [ 編集 ]

福岡県 北九州市 小倉北区 紺屋町にある、西部毎日会館(毎日新聞西部本社)隣の2階建て店舗の2階にある理容室がパンチパーマ発祥の店 [8] 。店の看板には「元祖」と書かれてある。但し元祖の店は同じヘアスタイルだが、「チャンピオンパーマ」でありパンチパーマでない。

出典 [ 編集 ]

  1. ^ a b 永沼重己さん(72)=小倉北区 パンチパーマを考案 毎日新聞福岡版、2009年 6月1日
  2. ^ NHKクイズ日本人の質問(編)『クイズ日本人の質問』河出書房新社1996年、214頁
  3. ^ 朝倉喬司『ヤクザ・風俗・都市 - 日本近代の暗流』現代書館2003年
  4. ^ “遠望細見 進化するパンチ 小倉生まれの粋なヘア”. 読売新聞 西部夕刊 (読売新聞社): p. 1. (2001年4月11日)
  5. ^ 広島カープで受け継がれる「パンチパーマの系譜」 | 東スポWEB
  6. ^ 【広島V目前】伝統のパンチパーマ手がけた理髪店主…「若いファンにぼくらと同じ感動を」 浩二さん、金本監督ら顧客 - 産経ニュース
  7. ^ “パンチパーマ”. 朝日新聞 西部夕刊 (朝日新聞社): p. 11. (1996年8月24日)
  8. ^ 掘り出しニュース - パンチパーマ生みの親語る 毎日新聞 2009年6月1日

関連項目 [ 編集 ]