フェルディナンド・マルコス
フェルディナンド・マルコス
Ferdinand Marcos |
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任期 |
1965年
12月30日
–
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出生 |
フィリピン イロコス・ノルテ州、Sarrat |
死去 |
1989年
9月28日(72歳没) アメリカ合衆国、ハワイ州 ホノルル |
政党 |
自由党
(1946-1965) Nacionalista Party (1965-1978) Kilusang Bagong Lipunan (1978-1986) |
配偶者 | イメルダ・マルコス |
子女 | ボンボン・マルコス |
署名 |
フェルディナンド・エドラリン・マルコス(スペイン語:
Ferdinand Edralin Marcos、1917年
来歴 [ 編集 ]
学生時代 [ 編集 ]
アメリカ合衆国の植民地支配下のフィリピンで生まれた。父親は弁護士にしてイロコス・ノルテ州選出国会議員、母親は教師だった。4人兄弟の2番目であった。
1937年、フィリピン大学法学部の学生だったとき、父親と政治的に対立していた下院議員暗殺事件の容疑で起訴され、同年11月に有罪判決を受けた。マニュエル・ケソンカジノ チップ 値段領により恩赦を受けるが、これを拒否し刑務所にて裁判の準備と司法試験の勉強をして過ごした(後に司法試験はトップで合格する)。翌年、最高裁判所判決にて無罪となる。
戦時中 [ 編集 ]
後に書かれたマルコスの伝記によれば、「日本軍がアメリカの植民地だったフィリピンに進出した1942年1月当時、中尉だったマルコスは、18歳だった3人の新兵と共に、後方の日本軍前線を突破し敵兵の50人を殺害、同師団を釘付けにしていた日本軍の迫撃砲を破壊し、さらに日本軍の捕虜となった際、拷問をかけられながらもこれに反撃し脱出した」ことが記されている。この軍功により、大尉に昇進し名誉勲章に推薦されている。
同年1月に、アメリカ軍を放逐した日本軍はマニラを無血占領したが、マルコスは辛くもバターン死の行進から脱出しているものの、その後の動向は不明である。こうしたマルコスが主張する「抗日ゲリラ活動での活躍」は、後の政治的成功の大きな要因となった。しかし後に公表された米国公文書館の記録によれば、戦時中の活動はごくわずか、もしくは全く無かったことが明らかになっている。さらに上記のような日本軍との戦闘も記録されていない。
議員時代
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フィリピン独立後の1946年から1947年まで、マニュエル・ロハスカジノ チップ 値段領の補佐官を務め、1949年には下院議員に当選、その際の選挙スローガンは「投票日に、あなたの下院議員として私を選出してください。そうすれば私は20年でカジノ チップ 値段領となります」というものだった。1959年には上院議員に鞍替えし、1962年から1965年までは上院議長を務めた。
1954年に、ミス・マニラのイメルダ・マルコスと結婚、2人の間に3人の子供に恵まれた。長女で現在もフィリピン下院議員を務めるアイミー・マルコス。長男で北イロコス州知事のフェルデナンド・マルコスjr。そして次女のアイリーン・マルコスである。なお2004年にシドニーの新聞がマルコスと水着モデルとの間に1971年生まれの娘がいたとする報道を行ったが、このほかにもマルコスには17人の非嫡出子がいるとの噂がある。
議員時代までマルコスの政治経験の大半はフィリピン自由党党員としてのものだった。1965年のカジノ チップ 値段領選挙では党の候補者指名を求めたが、指名されたのは現職カジノ チップ 値段領の
選挙では頭の回転の良さと弁舌を生かして演説し、マスコミは彼を「アジアのケネディ」と称するまでに至った
カジノ チップ 値段領就任 [ 編集 ]
マルコス就任以前のフィリピンはクーデターが相次いでいた東南アジア諸国に比べ
マルコスの政策は、国内の地方開発と徴税機能の強化を主軸とするものであり、在任中に強靭な経済を作り上げることを公約した。地方政策としては「コメと道路」を重点政策とし、緑の革命でコメの自給を達成し、道路建設や学校、病院の建設といったインフラ整備を積極的に行った
また在任中は、冷戦下でソビエト連邦などの共産主義諸国と対峙していたアメリカと緊密な同盟関係を築く。歴代のアメリカカジノ チップ 値段領とはいずれも親密だったが、特に
国内の治安面では、共産主義の脅威に対抗し、ソビエト連邦や中華人民共和国からの支援を受けていたフィリピン共産党の新人民軍や、少数民族のモロ人の暴徒に対して軍事行動を開始した。
こうした実績により、1969年のカジノ チップ 値段領選挙ではロペスと共に再選された。1971年、マルコスは1935年に制定されたフィリピン憲法の修正を目的に憲法制定会議を発足させる。会議は元カジノ チップ 値段領カルロス・P・ガルシアらを中心に321人の選出された代表者で構成されていた。しかし、会議では「新憲法下でマルコスの再選禁止」提案に対して、これを支持する為の買収による多数派工作が発覚し、スキャンダルにまみれることになる。なお、マルコス自身は首相として引き続き政権を担えるよう議院内閣制への政体変更を主張していた。
戒厳令布告 [ 編集 ]
しかし贅沢品の購入増加や農村から都市への人口流入が増大したことによって、高インフレと失業率増加を招くこととなった。農村部においては毛沢東思想に傾倒した共産党や武装組織の新人民軍が結成され、また南部ミンダナオ島では、新規入植者と現地住民との間での軋轢が発生していた [3] 。特に1970年1月から3月にかけて「 第1四半期の嵐 」と呼ばれる学生運動に端を発した暴動の増加や、新人民軍の爆弾テロによって国内の政情は不安定となる。
マルコスは、一連の暴動を共産主義の脅威として警告し「共産主義者が徘徊し、人々の殺害と女性達の強姦を起こして、卑怯に国を破壊する」と主張した。そして、1972年9月21日に、「 布告第1081号 」によって、フィリピン全土に戒厳令を布告した [3] 。この戒厳令により1935年憲法は停止され、独裁政権への道を開くことになる。 同年12月7日には、記念式典に出席していた夫人が襲撃されて重傷を負う事件が発生。犯人は当初、マルコスを狙っていたことが明らかになっている [4] 。 1973年には戒厳令の布告中に、カジノ チップ 値段領職と首相職を兼任することを認める議院内閣制の新憲法を制定、さらに1976年には暫定議会選挙まで両職を兼任できるように憲法改正を行う。
なお同時期には、マラカニアン宮殿で執り行なわれた残留大日本帝国陸軍兵の小野田寛郎の投降式に出席している。その際、小野田から降伏の印として軍刀を手渡されたが、マルコスは「第二次世界大戦は終わった」と直ちに日本刀を返還した。
こうした戒厳令布告による強権政治や開発独裁は、隣国インドネシアのスハルトの手法を真似たとみられている。マルコスの著書『新しい社会の上に記録する』によれば、それは既存の特権階級に与えられていた権益を貧者に解放する政策だった。フィリピン経済を伝統的に支配した華僑など既存の特権階級が持つ権益は没収され、貧しい人たちに特権が与えられたと喧伝されたが、実際にはマルコスの一族と取り巻きに引き継がれたに過ぎなかった。この現象を示すために「クローニー(縁故・取り巻き)資本主義」なる用語まで登場した。この政策は国家主義的な意図があったとみられ、この既存階級に対する闘争は労働者の支持を集め、農地解放は農民の支持を集めた。しかし、この間に、その権益の分配をめぐり贈収賄・恐喝・横領が生じることになる。
戒厳令布告は、フィリピンの政情不安を背景に、特に共産主義の東南アジアに対するドミノ現象を警戒する旧宗主国のアメリカ合衆国を始めとする、諸外国の理解が得られた。戒厳令と夜間外出禁止令施行後、国内の犯罪率が劇的に低下し、政情の安定は
マルコス支配に反対する、ベニグノ・アキノ上院議員やホセ・ジョクノ上院議員ら約200人が拘束され [3] 、 結果として、何千人もが北アメリカに亡命し移住した。また、 路上でのデモといった反政府活動ではそのリーダーが即座に逮捕されて、拘留・拷問にかけられたか、消息不明となった。共産党員と同様、反政府活動家は都市から地方に逃れ、そこで勢力が拡大することになる。また報道統制によりマスコミ弾圧も行われた。
戒厳令の布告から解除までの9年間に兵員23万人の国軍は3倍に規模が拡大した。また、同時に何千という民兵団が組織された。マルコス政権下における軍事的なサポートは、
1978年4月、戒厳令布告後初めて国民議会選挙が行われ、イメルダ・マルコスカジノ チップ 値段領夫人の率いる与党・新社会運動(Kilusang Bagong Lipunan)が、全161議席中、151議席を獲得し圧勝、この他に議席を獲得したのは、僅か2つの地域政党のみだった。イメルダは単なるカジノ チップ 値段領夫人にとどまらず、自ら企画したマニラ文化センターをオープンさせるなど、国政にも介入していた。1974年、自ら中華人民共和国に訪中して、貿易拡大書簡に調印。1975年、台湾(中華民国)と国交断絶して当時米国に接近していた中華人民共和国と国交を結んでいる。同年には
この選挙でベニグノ・アキノ率いる野党・LABANを始め野党は議席を獲得できず、大規模な不正行為を主張し、マルコスを非難した。野党は、1980年の地方選挙と1981年の国民議会選挙をボイコットする。
形式的再選と経済の悪化 [ 編集 ]
1981年1月に予定された
国内の経済開発では海外からの借款が多用された。また、1973年より始まった観光事業の振興策と、海外に出稼ぎに行くフィリピン人労働者の送金が、重要な外貨獲得の手段だった。マルコス施政下の初期には、経済のパフォーマンスは強かったものの、独裁体制が進むにつれて汚職が蔓延し、経済成長が見られなかった。ペソ経済圏では1人当たりの実質GDPが、1951年から1965年の間に3.5%成長したというが、1966年から1986年間のマルコス施政下では年平均成長は1.4%だった。
1983年8月、野党勢力の中心人物で、アメリカ合衆国に亡命していたベニグノ・アキノ・ジュニア上院議員が、フィリピン共和国帰国時にマニラ国際空港で
さらにマルコス政権末期、彼自身の腎臓疾患のために政務に支障が生じ、閣議に欠席する日が続く。イメルダ夫人が政務を取り仕切るようになり、取り巻きたちは、バターン原子力発電所建設に象徴される、意図的にずさんなプロジェクト等で汚職を繰り返した。アキノ暗殺事件では、多くのフィリピン国民がマルコス自身が関与していないにせよ、隠蔽工作には関わっていると考えていた。1985年に、暗殺事件の容疑者として起訴された、国軍参謀総長・ファビアン・ベール大将らの無罪判決は、裁判の公正性への疑問と共にこの考えをより強くさせるものだった。
政権の黄昏 [ 編集 ]
1984年までに、それまではマルコス政権を支持していたアメリカのレーガン政権もこれに距離を置き始めた。同盟国からの圧力の結果、マルコスはカジノ チップ 値段領任期が1年以上残っている状態で、1986年にカジノ チップ 値段領選挙を行うことを余儀なくされた。野党連合は、ベニグノ・アキノの未亡人、コラソン・アキノをカジノ チップ 値段領選挙の統一候補とした。
1986年 2月7日に行われたカジノ チップ 値段領選挙では、民間の選挙監視団体「自由選挙のための全国運動」や公式な投票立会人らが、最終得点はアキノがほとんど80万票差で勝利したと示したものの、中央選挙管理委員会の公式記録は、マルコスが160万票の差で勝利したと発表した。マルコスによるあからさまな開票操作(不正選挙)は、野党連合のみならず、アメリカ合衆国連邦政府、フィリピン社会に大きな影響力を持つカトリック教会からの非難を浴びた。
結局、2月22日選挙結果に反対するエンリレ国防大臣、ラモス参謀長らが決起し、これを擁護する人々100万人が、マニラのエドゥサ通りを埋めた。2月25日、コラソン・アキノがカジノ チップ 値段領就任宣誓を行い、大衆によってマラカニアン宮殿を包囲されたマルコスは、アメリカ合衆国軍に一家を北イロコス州へ避難させることを要請し、一家はヘリコプターでクラーク空軍基地に脱出するが、意に反してハワイへ飛び、事実上の亡命に追い込まれた(エドゥサ革命またはピープルパワー革命)。
死去後 [ 編集 ]
1989年に、亡命先のハワイ・ホノルルでイメルダ夫人に看とられながら9月28日に病没した。20年に亘るフィリピンカジノ チップ 値段領在任中に、多額の国家資産を横領したというが、全容ははっきりと分かっていない。遺体はフィリピンへの帰還後、北イロコス州バタック町にある実家の霊廟にて、エンバーミングの上冷凍保存されていたが
[5]
、2016年
11月18日にマニラ首都圏
タギッグ市のフィリピン英雄墓地に
脚注 [ 編集 ]
注釈 [ 編集 ]
-
^
例としてタイでは軍事クーデターが多発し(タイにおける政変一覧も参照)、インドネシアでは
スカルノ・スハルトによる長期政権が続いた。
出典 [ 編集 ]
-
^
「マルコス」『旺文社世界史事典 三訂版』旺文社、
コトバンク。2022年9月6日閲覧。 - ^ a b c d エリア・スタディーズ 2009, p. 174.
- ^
a
b c エリア・スタディーズ 2009, p. 175. - ^ 「犯人の姉妹取調べ 比カジノ チップ 値段領夫人襲撃事件」『朝日新聞』昭和47年12月9日朝刊、13版、3面
- ^ “フィリピンのイメルダ夫人に「靴ケーキ」、85歳の誕生日祝う”. ロイター (ロイター通信社). (2014年7月3日) 2014年7月6日閲覧。
- ^ “マルコス元カジノ チップ 値段領の遺体、英雄墓地に埋葬”. AFPBB News (AFP通信). (2016年11月18日) 2016年11月19日閲覧。
- ^ 大塚智彦 (2016年11月14日). “マルコス元カジノ チップ 値段領を英雄墓地に埋葬したがるドゥテルテの思惑”. ニューズウィーク 2016年12月5日閲覧。
-
^ “マルコス元カジノ チップ 値段領を英雄墓地に埋葬 フィリピン”. CNN . (2016年11月19日) 2017年9月4日閲覧。
関連文献 [ 編集 ]
- 吉川洋子「マルコス戒厳令体制の成立と崩壊 - 近代的家産制国家の出現」、河野健二編『近代革命とアジア』、名古屋大学出版会、1987年
- シーグレープ、スターリング、早良哲夫・佐藤俊行訳『マルコス王朝』(上・下)、サイマル出版会、1988年
- 藤原帰一「フィリピンにおける『民主主義』の制度と運動」、『社会科学研究』40巻1号、1988年7月
- 清水展『文化のなかの政治 フィリピン「二月革命」の物語』、弘文堂、1991年
- 大野拓司、寺田勇文『現代フィリピンを知るための61章 第2版』明石書店〈エリア・スタディーズ〉、2000年9月25日、175-189頁。 ISBN 978-4-7503-3056-3。