ヘンリー・モートン・スタンリー
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ヘンリー・モートン・スタンリー(Sir Henry Morton Stanley,
生い立ち [ 編集 ]
ウェールズ北部の デンビー にて、父ジョン・ローランズと母エリザベス・パリーの私生児ジョン・ローランズ (John Rowlands) として生まれる。父親が2歳の時に亡くなり、母親が彼の世話をしなかったために、5歳まで祖父の元で、15歳までセント・アサフの救貧院で育つ。10歳の頃に母と兄弟が救貧院を訪れたがジョンは誰か分からなかったという。初等教育終了後はナショナル・スクール ( National school (England and Wales) )で学生教師をしていた。18歳で新しい生活を求めアメリカに向けて出発し、ニューオーリンズで商人ヘンリー・モートンの養子となり、ヘンリー・モートン・スタンリーと改名する。南北戦争の際には南軍に参加しシャイローの戦いなどに従軍した。
記者 [ 編集 ]
1867年インディアン和平委員会のサミュエル・F・タッパン大佐 (
Samuel F. Tappan
)に誘われスタンリーは複数紙の海外特派員となった。すぐにジェームズ・ゴードン・ベネット・シニア (
James Gordon Bennett, Sr.
)に気に入られ『ニューヨーク・ヘラルド』の専属となり、イギリス軍のアビシニア遠征の従軍記者となった。1869年、
ジェームズ・ゴードン・ベネット・ジュニア
に
1872年7月にイギリスに戻り、『ニューヨーク・ヘラルド』と『デイリー・テレグラフ』に手記を公表すると、スタンリーは私人として最大級の歓迎を受けた。
1873年には、リヴィングストンの消息を明らかにしたことに対して、王立地理学会から金メダル(パトロンズ・メダル)を贈られた [1] 。
コンゴ [ 編集 ]
1874年ヘラルドは『デイリー・テレグラフ』と共同で出資し、スタンリーらはビクトリア湖、アルバート湖を経てアフリカを横断しコンゴ川の流路を確認した。999日後の1877年 8月9日スタンリーらはポルトガル領であるコンゴ川河口に到着した。356人で出発し114人が生き残り、欧米人はスタンリーのみであった。冒険記『暗黒大陸を抜ける( Through the Dark Continent )』は征服行のように描かれた。
1876年には科学的・友愛的な装いをしつつ
1889年にはルウェンゾリ山地を最初に目撃したヨーロッパ人となる。それ以前の欧州からの探検家たちは、山地が絶えず発生している山を覆う雲に遮られ、視認することができなかった。スタンリーはナイル川の水源をこの山地と判断している。ルウェンゾリ山地の最高峰はスタンリー山群 (
スタンリーからの命名 [ 編集 ]
スタンレー電気の社名はスタンリーにあやかってつけられた。
コンゴ川中流に位置する湖、マレボ湖の旧名であるスタンリープール(Stanley Pool)も、レオポルド2世の命によってザイール川を探検した彼の名に因む。
著書邦訳 [ 編集 ]
- 『リヴィングストン発見記』村上光彦,三輪秀彦訳 世界ノンフィクション全集 第6 筑摩書房 1960
- 『暗黒大陸』宮西豊逸訳 世界教養全集 平凡社 1961
- 『緑の魔界の探検者 リビングストン発見記』 仙名紀訳 小学館 地球人ライブラリー 1995
- 『リビングストン発見隊』
山口進訳 小沼直人絵 講談社 青い鳥文庫 1997
脚注 [ 編集 ]
- ^ “” (PDF). Royal Geographical Society. 2016年11月24日閲覧。
-
^
松尾秀哉『物語 ベルギーの歴史 ヨーロッパの十字路』中央公論新社、2014年、77頁。
ISBN 978-4-12-102279-0。 - ^ Alastair Compston (2008). “Editorial”. Brain 131 (5): 1163-1164 .
- ^ Stanley begins search for LivingstoneThis Day in History
関連文献 [ 編集 ]
- 藤田緑「リヴィングストンの見る東アフリカのアラブ商人」『国際文化研究科論集』7巻、pp.57-71, 東北大学大学院国際文化研究科、1999年12月20日。