ミハイル・ボロディン
ミハイル・マルコヴィチ・ボロディン(ロシア語:
Михаил Маркович Бородин、Mikhail Markovich Borodin、
青年期 [ 編集 ]
1919年から1922年の間、彼はコミンテルンの工作員(正式には駐メキシコ領事)としてメキシコ、その後、アメリカ合衆国、英国で活動した。イギリスではコミンテルンの工作員として逮捕され、半年の拘留後に国外追放された。
中国における英国敵視政策と容共政策への誘導 [ 編集 ]
1923年から1927年まで、ボロディンは中国
広東における中国国民党政府に対してのコミンテルン及びソビエト連邦の代表であり、その時期には孫文の主要な政治顧問となっていた。彼の進言により中国国民党はマルクス・レーニン主義を受け入れ、共産主義者の入党が認められ、黄埔軍官学校が設立された。同時に1925年から1927年の間は、広東において反英運動の組織と指導も行っていた
[1]
。モスクワの英国大使館はボロディンの人物照会を求めたが当時の外務人民委員代理
マクシム・リトヴィノフは「ボロディンのことはほとんど知らないけれど、彼はソ連政府とは何の関係も無い一民間人である」と答えている
ソ連の海外拠点に対する強制捜査 [ 編集 ]
1927年4月6日、
5月12日、ソ連の貿易代表部であったアルコスのロンドン事務所が捜索を受け(
晩年 [ 編集 ]
帰国後間もなく、労働人民委員代理に任命された。その後、英字新聞紙『モスクワ・ニュース』編集者(1932年-1949年)、タス通信副局長(1932年-1934年)、『ソヴインフォルムビューロー』(Soviet Information Bureau)編集長(1934年-1949年)として働いた。
ユダヤ人だったため、1949年にソビエト連邦の敵であるとして逮捕された。シベリアの強制収容所に送られた後、そこで2年後に死亡した(別説によれば、銃殺されたとも)。死後、名誉回復。
家族 [ 編集 ]
- 妻のファイナ・ボロディナ(ロシア語: Фаина Самуиловна Бородиа、1892年 - 1967年)は、外国語講師。北京のソ連大使館捜索に先立つ1927年2月28日、ソ連の汽船「パーミャチ・イリイッチ」が拿捕された時に張作霖当局により逮捕された。張作霖は、南北間の和平締結を得ることを目的にして、ボロディンに働きかけようと試みた。5月に取引が失敗した時、ファイナは北京の刑務所に移され、6月に武器と扇動文献の輸送の嫌疑で裁判にかけられた。しかしながら、裁判官の買収に成功し、7月12日に無罪判決が言い渡された。釈放後、ファイナは、新疆を経由してソ連に帰国した。
- 息子のノルマン(ロシア語: Норман、1911年 - 1974年)は、「ノーヴォスチ」出版社で政治オブザーバを勤めた。
その他 [ 編集 ]
ケネス・レクスロスは、彼の詩Another Early Morning Exerciseにおいて、アンドレ・マルローは1928年に発表された彼の最初の小説 Les Conquérantsにおいて、ボロディンに触れている。
脚注 [ 編集 ]
- ^ a b c K・カール・カワカミ『シナ大陸の真相』福井雄三訳、展転社、2001年 30-31頁 ISBN 4-88656-188-8
- ^ 『東京朝日新聞』1927年4月7日付朝刊、F版、2面
- ^ 実際に南京事件の経緯と符合しており、このような「訓令」は事実であったとする見解は有力である(児島襄『日中戦争1』文春文庫p.83)。
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ソビエト連邦の諸外国との外交関係樹立の日付
関連項目 [ 編集 ]
- グリゴリー・ヴォイチンスキー - 中国共産党を設立させるために中国に派遣されたコミンテルンの工作員
- アドリフ・ヨッフェ – 1923年、孫文とヨッフェは、コミンテルン、中国国民党および中国共産党の連携を宣言した