ムスタファ・レシト・パシャ
ムスタファ・レシト・パシャ
مصطفی رشید پاشا
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ムスタファ・レシト・パシャ
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生年月日 | 1800年 3月13日 |
出生地 | オスマン帝国、イスタンブール |
没年月日 | 1858年 1月7日(57歳没) |
死没地 | オスマン帝国、イスタンブール |
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在任期間 |
1846年
9月28日
-
1848年
4月28日
1848年 8月12日 - 1852年 1月26日 1854年 11月24日 - 1855年 5月2日 1857年 10月22日 - 1858年 1月7日 |
皇帝 | アブデュルメジト1世 |
大ムスタファ・レシト・パシャ(オスマン語:
قوجه مصطفی رشید پاشا
,
トルコ語:
Koca Mustafa Reşid Paşa,
1800年
人物・略歴 [ 編集 ]
役人を志し宮廷へ出仕、マフムト2世に重用され1834年に駐仏大使としてパリに滞在、1836年に外務大臣に昇進して
しかし危機が去ると1841年に駐仏大使へ左遷され、1846年に大宰相に就任するも1848年に罷免、以後再任と罷免を繰り返しながら改革進展と外交に力を尽くしたが、1853年にロシアが要求したエルサレムにおけるギリシャ正教徒の保護を拒否したためクリミア戦争が勃発した。1856年にウィーン議定書が締結された際に意見を政府へ提出、議定書に宗教的寛容が記されていることについて改革で既に認めていることを根拠に反論したが、列強の圧力で政府は非ムスリムの政治・社会進出を記した改革勅令を発布、パリ条約でも宗教的寛容を明記され、西洋の進出が著しくなった。ギュルハネ勅令を起草し、読み上げたムスタファ・レシト・パシャであったが、改革勅令については草稿段階ですでにこれに批判的であったという。1858年、6度目の大宰相在任中に死去 [1] 。
事績と人間関係 [ 編集 ]
ムスタファ・レシト・パシャはタンジマート改革を進める一方で人材登用を行い、メフメト・エミン・アーリ・パシャ、メフメト・フアト・パシャや アフメト・ジェヴデト・パシャ 、ミドハト・パシャなどを引き立て、前者2名はレシト・パシャ亡き後に改革勅令に沿ってタンジマートを推進、後者2名は1846年に創立した教師養成学校の校長と1876年の大宰相に就任、それぞれ民法典とオスマン帝国憲法編纂の中心となった。
1837年にオーストリアのウィーンへ移住させた外務省官僚
サードゥク・リファト・パシャ
の意見を参考にしてギュルハネ勅令を起草、1849年に
イブラヒム・シナースィー
をフランスへ5年間留学させたこともある。帰国後シナースィーは政府に仕えるが、レシト・パシャの死後1860年に『諸情勢の翻訳者』という新聞を刊行、1862年に新たに『世論の叙述』を創刊し
脚注 [ 編集 ]
- ^ パーマー、P165 - P174、永田、P288 - P299、新井、P47 - P49、P67 - P71、P79 - P85、P99 - P102。
- ^ パーマー、P175 - P176、永田、P298 - P299、新井、P79 - P85、P91 - P119、P165 - P166。
参考文献 [ 編集 ]
- アラン・パーマー著、白須英子訳『オスマン帝国衰亡史』中央公論社、1998年。
- 永田雄三編『新版 世界各国史9 西アジア史』山川出版社、2002年。
- 新井政美『オスマン帝国はなぜ崩壊したのか』青土社、2009年。