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リビア爆撃 | |
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米軍機のカメラで捉えられた爆撃を受けるリビアの軍事施設と軍用機。 |
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戦争:カッザーフィー爆殺未遂事件 [1] | |
年月日:1986年 4月15日 [1] | |
場所:リビア・トリポリ、ベンガジ [1] 。 | |
結果:リビアの軍事施設は破壊されるもカッザーフィーの暗殺には失敗 [1] 。 | |
交戦勢力 | |
アメリカ合衆国 | リビア |
指導者・指揮官 | |
ロナルド・レーガン
ジョージ・H・W・ブッシュ キャスパー・ワインバーガー チャールズ・ガブリエル ジェームズ・ワトキンス |
ムアンマル・アル=カッザーフィー
ジャードッラー・アズーズ・アッ=タルヒー ハリファ・ハフタル |
戦力 | |
アメリカ空軍
F-111戦闘機24機 EF-111レーダー機5機 滞空燃料補給機28機 SR-71高空偵察機1機 アメリカ海軍 空母コーラル・シー 空母アメリカ A-6攻撃機 A-7攻撃機 F-18戦闘機 トリポリ爆撃 F-111戦闘機13機 レーダー妨害機3機 [1] |
リビア軍全体 ミラージュ、MiG-21、MiG-23等戦闘機535機 戦車多数 アメリカ製武器・軍事機器 トリポリ基地防衛 重装備部隊多数 高性能防犯機器 迎撃ミサイル多数 戦車多数 |
損害 | |
F-111戦闘機1機撃墜・パイロット戦死 [2] | カッザーフィー養女1人殺害 同人息子2人負傷 37人戦死・犠牲 内民間人15人 93人負傷 [1] |
リビア爆撃(リビアばくげき)は、1986年 4月15日にアメリカ空軍及び海軍によって行われた リビアに対する空襲を指す。リビア最高指導者のムアンマル・アル=カッザーフィーの暗殺を目的とした攻撃であった。
作戦自体は成功したものの、カッザーフィーの暗殺に失敗した上、アメリカは国際的非難を浴びることとなった。また、リビア政府はこの報復として1988年12月にパンアメリカン航空103便爆破事件を起こしている。
背景 [ 編集 ]
1985年10月には地中海でイタリア客船のハイジャック事件(アキレ・ラウロ号事件)が、同年12月にはウィーンとローマの空港で爆破事件(
その後4月5日、
西ベルリンの
攻撃 [ 編集 ]
アメリカと同盟各国による秘密裏の外交交渉が続いた後、ロナルド・レーガン 大統領は4月14日に攻撃命令を発した。
攻撃作戦名はエルドラド・キャニオン作戦(Operation El Dorado Canyon)と命名されている。攻撃に参加したのはイギリス駐留のF-111(48TFW,第48戦術戦闘航空団)、EF-111(20TFW,第20戦術戦闘航空団)と地中海に展開していた第6艦隊の3隻の航空母艦(アメリカ、コーラル・シー、サラトガ)搭載の艦載機隊(A-6、A-7、F/A-18、EA-6B)である。
イギリスの部隊はフランスとスペインから領空の通過を拒否されたために、空中給油を行いつつ大西洋・ジブラルタル海峡を経由する迂回路を取った。この迂回路のために、飛行経路は2,000km以上伸ばされている。爆撃目標は、トリポリのカッザーフィーの居所や空軍基地、ベンガジの防空網などである。
攻撃は15分間に渡って行われ、レーザー誘導爆弾を含む300発の爆弾が投下され、48発のミサイルが発射された。
被害 [ 編集 ]
リビア軍の死者数の詳細は不明であるが、民間人15名とカッザーフィーの1歳3ヶ月の養女ハナが死亡したとリビアは発表し大規模な追悼が行われた。2011年のリビア内戦によりカダフィ政権が崩壊すると、養女のハナが生存し医師となっていることが明らかになった。
また、アメリカ軍もF-111がシドラ湾上空で1機撃墜され、乗員2名が行方不明となった。なお、うち1名は後に遺体がアメリカに返還されている。
リビアの報復行動
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リビアは報復として、イタリアにあるアメリカ沿岸警備隊の基地に対するスカッドミサイル攻撃を行ったが、これは海に着弾し、被害はなかった。また、1988年のスコットランド上空におけるパンナム機爆破事件もこの爆撃の報復とされている。
結果 [ 編集 ]
アメリカの行動はイギリスなどを除き、他国に対する大規模な軍事行動として各国の非難を受けた。ただし各国間の外交関係の根本的な変化は発生せず、アメリカとソ連との外交関係にも大きな影響は無かった。
脚注 [ 編集 ]
関連項目 [ 編集 ]
- シドラ湾事件 (1981年)
- シドラ湾事件 (1989年)
- オリバー・ノース - 当時国家安全保障会議軍政部次長、 アメリカ海兵隊 中佐。トリポリとベンガジのリビア基地空爆の作戦計画策定に参加した。