鄭松
鄭松 | |
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平安王鄭松(『鄭家正譜』より)
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各種表記 | |
漢字・チュノム: | 鄭松 |
北部発音: | チン・トゥン |
日本語読み: | てい しょう |
鄭 松(てい しょう
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、チン・トゥン、
生涯
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諒国公鄭検の次男。
阮淦の外孫にあたる。初め福良侯の封号を受けた。
光興15年(1592年)、鄭松は莫朝の都昇龍を攻略 [1] 、皇帝の 莫茂洽 を殺害して莫朝の勢力を高平に駆逐し、南北朝時代を終結させた。この功績により、後黎朝の実権は完全に鄭松により掌握された。光興22年(1599年)、朝廷から平安王に封じられ、都元帥・総国政を加号され、 尚父 の称号を受けた。
同年に世宗が崩御するとその次男の黎維新を擁立した(敬宗)。弘定20年(1619年)、次第に権力を強大化させる鄭松を恐れた敬宗は、鄭松の末子である万郡公鄭椿らを集めてクーデターを謀り、鄭松の乗った戦象を銃撃した。このクーデターは失敗に終わり、鄭松は敬宗を 自縊に追い込んで自らの外孫である長男の黎維祺を擁立した( 神宗 )。
永祚5年(1623年)に鄭松が重病に陥ると、鄭椿が反乱を起こした。鄭松は輿に乗って昇龍を脱出したが、この機に乗じて権力を握ろうとした弟の奉国公鄭杜が途中で輿を投げ出すよう従者たちに言い含めていたため、鄭松は道端に打ち捨てられて生涯を終えた。
鄭杜は鄭椿を捕らえて殺し、鄭松の三男の清郡公
家族 [ 編集 ]
出典 [ 編集 ]
参考資料 [ 編集 ]
参考リンク [ 編集 ]
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