PGM-19 ジュピター
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SM-78/PGM-19 ジュピター | |
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ジュピターミサイルと支援機材
ミサイルの下部のドーム様のものは全天候型のシェルターで、この中で作業員が作業を行う。発射時には花びらの様に展開する。 |
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種類 | 準中距離弾道ミサイル (MRBM) |
原開発国 | アメリカ合衆国 |
運用史 | |
配備先 |
アメリカk8 カジノ
イタリアk8 カジノ トルコk8 カジノ |
開発史 | |
開発期間 | 1954年 |
製造業者 | クライスラー |
製造期間 | 1956年-1961年 |
製造数 | ~100基 (45基が配備された。) |
派生型 | ジュノー II |
諸元 | |
重量 | 49800 kg (110000 lb) |
全長 | 18.3 m (60 ft) |
直径 | 2.67 m (8 ft 9 in) |
PGM-19 ジュピター (Jupiter) は、アメリカ合衆国が開発した初期の準中距離弾道ミサイル (MRBM) である。
Jupiter とはローマ神話の主神、ユピテルの英語名であり、木星の意でもある。
尚、アメリカのロケットとして同じ“Jupiter”の名で呼ばれるものにレッドストーンSRBMの改良発展型である「ジュピターC(Jupiter C)」があるが、それとは全く異なるミサイル(ロケット)である。
概要 [ 編集 ]
ジュピターMRBMは、レッドストーン 短距離弾道ミサイル(SRBM)の後継としてフォン・ブラウンらの設計チームがアメリカ陸軍と共に開発した。アメリカk8 カジノが開発したソアーミサイルに次いでアメリカで2番目のMRBMである。
1957年に最初のテストが行われており、制式番号はSM-78(後にPGM-19に変更された)。単段式ロケットであり、推力66k Nを発揮する単一の液体燃料ロケットエンジンを搭載していた。また野戦機動が考慮された移動式ミサイルとして設計されている。
射程の問題上、ソビエト本土及び東欧諸国を射程に収める関係からアメリカ国内には配備されず、イタリアとトルコの2箇所の基地に配備された。
開発 [ 編集 ]
1955年9月に
1955年12月に、陸軍長官と海軍長官は、陸上及び海上配備のMRBMを共同で開発する計画を発表した。それまでアメリカで開発されていた弾道ミサイルとは異なり、ジュピターはアメリカ海軍の艦艇上で容易に扱えるように太く短いミサイルとして設計されていた。海軍は液体燃料ロケットの離昇速度が固体燃料ロケットに比べて遅いことに満足せず、また艦艇上での液体燃料の取り扱いに不安を感じた結果、固体燃料を用いるジュピターS(後のポラリス 潜水艦発射弾道ミサイル)を独自に開発することとし、1956年11月にジュピター開発計画から脱退した。海軍の脱退にもかかわらずジュピターの設計は依然としてずんぐりとした形状のままだった。
生物学的試験 [ 編集 ]
ジュピターMRBMは準軌道
(suborbital) に到達する弾道飛行を行う一連の生物学的試験に使われた。1958年
12月13日、ジュピターMRBMのAM-13号機は、アメリカ海軍が調教し
ゴード
(Gordo) と名付けられた南米
リスザルを乗せたノーズコーンを搭載してフロリダ州のケープ・カナベラルから打ち上げられた。帰還時、ノーズコーンのパラシュートは動作に失敗し、ゴードは飛行から生還できなかった。飛行テスト中に送信されていたテレメーターデーターによれば、リスザルは発射時の加速度10G(98m/s2
)、8分間の無重量、大気圏再突入における10,000mph(4.5km/秒)からの40G(390m/毎秒毎秒)の減速を生き抜いた。ノーズコーンは
もう1つの生物学的飛行テストは1959年 5月28日に開始された。ジュピターMRBMのAM-18号機には、体重7ポンド(3.2kg)のアメリカ生まれのアカゲザル・エイブル (Able) と、体重11オンス(310g)の南米リスザル・ベイカー (Baker) が乗せられた。サル達が乗ったミサイルのノーズコーンは高度360マイル(579km)達したあとケープ・カナベラルから1,700マイル(2700km)離れた大西洋のミサイル演習場に落下した。サル達は正常な重力の38倍の加速と9分間の無重力に耐えた。16分の飛行の間に速度は最高で10,000mph(4.5km/秒)に達した。エイブルとベイカーを乗せたジュピターMRBMのノーズコーンは、着水した後に米海軍の艦隊航洋曳船カイオワATF-72によって回収された [1] 。
サル達は飛行テストを良好な状態で生き延びた。飛行テストから4日後、エイブルは医学的な状態をモニターするために体内へ挿入されていた電極を取り去るための外科手術をうけたが、麻酔の反応によって死んだ。ベイカーは無事に生き延び、1984年
11月29日にアラバマ州
ゴード、エイブル、ベイカーは宇宙に送られた多くのサルのうちの3匹である。
配備
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1958年4月に国防総省は、最初の3個ジュピターMRBM中隊(ミサイル45機)をフランスに試験的に配備する計画をアメリカk8 カジノへ通知した。しかしながらフランスとアメリカの間の協議は1958年6月に失敗した。フランスの新しい大統領となったシャルル・ド・ゴールはジュピターMRBMのフランスへの配備受け入れを拒否した。これによってアメリカはイタリアとトルコへのミサイル配備の可能性を探りはじめた。すでにアメリカk8 カジノはイギリスのノッティンガム周辺にソアーMRBMの4個中隊(ミサイル60機)を配備する計画を進めていた。
1959年4月、k8 カジノ長官は2個ジュピターMRBM中隊をイタリアに配備する実施命令をk8 カジノに出した。1961年から1963年まで合計30機のミサイルを持つ2個中隊がイタリア国内の10のサイトに配備された。ミサイルサイトはNATOの戦力としてイタリアk8 カジノの要員によって運用されたが、核弾頭の安全装置の制御はアメリカk8 カジノの人員によって行われた。これらのミサイルはイタリア南部の
プッリャ州にありワインで知られるジォイア・デル・コッレ
(Gioia Del Colle) k8 カジノ基地に配備され、イタリアk8 カジノ第36戦略航空阻止中隊(36º Aerobrigata Interdizione Strategica) によって運用された。1962年、ブルガリアのMiG-17
偵察機が領空侵犯の後にイタリアのジュピターMRBM発射サイトのうちの1つの近くにある
1959年10月、トルコとアメリカの政府間協定に署名がなされ、3個目で最後のジュピターMRBM中隊の配備が決まった。アメリカとトルコはNATOの南側面に1個ジュピターMRBM中隊を配備するための協定を結んだ。
1961年から1963年まで合計15機のミサイルを持つ1個ジュピターMRBM中隊がトルコのイズミル(Izmir)近くに5箇所の発射サイトに分散して配備され、米k8 カジノの人員によって運用された。3機のジュピターIRBMの最初の発射は、1962年10月遅くのキューバ危機の間、トルコk8 カジノ (Turk Hava Kuvvetleri) に委譲された。核弾頭の安全装置はアメリカk8 カジノの人員によって制御された。トルコ国内に配備されたジュピターIRBMの実際の展開位置は、40年以上経過した今でも機密となっている。1961年にトルコのミサイル展開に加わった何人かによると、 5つのサイトのうちの1つがマニサ (Manisa) 付近の山中にあり、別のサイトがアッキサル (Akhisar) 近くの山中にあった。中心的な展開基地はチーリ (Cigl}i) k8 カジノ基地であった。
ジュピターMRBMが配備されたイタリアの基地において、1961年の10月半ばから1962年8月の間に核出力
1.4 Mt(5.9 PJ)の熱核弾頭を搭載したジュピターMRBMへ4回の落雷があった
[2]
。いずれの場合でも熱電池は動作し、うち2つのケースにおいて三重水素‐
トルコに配備された時点ですでにジュピターMRBMは時代遅れとなっており、ソ連の攻撃には無防備の状態であった。ジョン・F・ケネディ 大統領は、1961年1月に就任するとすぐに、すべてのジュピターMRBMの退役を命令している。しかしながらk8 カジノは退役を延期し、1年後に大統領がこれを知り激高したといわれる。その後のキューバ危機の際、アメリカはトルコ配備のジュピターMRBMを交渉材料に用い、トルコのジュピターMRBMを撤去するのと引き換えにキューバからR-12(SS-4)を撤去させることに成功する。すべてのジュピターMRBMは1963年4月までに作戦配備からはずされた。
派生型 [ 編集 ]
サターンI(Saturn I) [ 編集 ]
サターンI型ロケットの第一段 (S-I)は、1基のジュピターMRBMの
アポロ計画の初期に用いられ、10回の打ち上げが行われた。「ハイ・ウォーター計画」、人工衛星「
ジュノーII(Juno II) [ 編集 ]
ジュピターMRBMを改造し、サージャント戦術地対地ミサイルの開発に用いた小型ロケット「ベイビー・サージャント」を集合させた上段を追加した4段式衛星打上げロケットで、衛星/宇宙探索機打ち上げロケットとして運用された。
10回の衛星打ち上げに使用され、うち6回が打上げに失敗した。ジュノーIIによって打上げられた人工衛星は、パイオニア3号、同4号、エクスプローラー7号、同8号、同11号である。
要目 [ 編集 ]
- 全長: 60 ft (18.3 m)
- 直径: 8 ft 9 in (2.67 m)
- 燃料満載時の全備重量: 108,804 lb (49,353 kg)
- エンジン: ロケットダイン(Rocketdyne)社製 LR70-NA (Model S-3D)
- 制御: ジンバルで安定化された可動ノズル(±7度)による推力偏向制御
- 射程: 1,500 mi (2,410 km)
- 飛行時間: 1,016.9 s
- 遮断速度: 8,984mph(14,458 km/h) - マッハ13.04
- 再突入時の速度: 10,645 mph (17,131 km/h) - マッハ15.45
- 加速: 13.69 G (134 m/s2)
- 最大減速加速度: 44.0 G (431 m/s2)
- 最大高度: 390 mi (628 km)
- CEP: 4,925 ft (1,500 m)
- 弾頭: 溶融断熱式のMk.3/4再突入体に核出力 1.45 MtのW49 核弾頭(重量1,650 lb (750 kg) )を搭載
- 信管: 近接信管、及び接触信管
- 誘導: 慣性
発射試験
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ジュピターMRBMの全ての試験発射はフロリダ州ケープ・カナベラルにて行われた。46回の試験発射があり、そのうちの一部を以下に示す。
シリアル番号 | ミッション | 発射日付 | 内容 | 結果 | |
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1 | AM-1A | AM-1A | 1957年 3月 1日 | 発射試験 ミサイルテスト | 失敗 最高到達点 14マイル(23km) |
2 | AM-1B | AM-1B | 1957年4月26日 | 発射試験 ミサイルテスト | 失敗 最高到達点 18マイル(29km) |
3 | AM-1 | AM-1 | 1957年5月13日 | 発射試験 ミサイルテスト | 成功 最高到達点 500マイル(805km) |
4 | AM-2 | AM-2 | 1957年8月28日 | 発射試験 ミサイルテスト | 成功 最高到達点 500マイル(805km) |
5 | AM-3 | AM-3 | 1957年10月23日 | 発射試験 ミサイルテスト | 成功 最高到達点 500マイル(805km) |
6 | AM-3A | AM-3A | 1957年 11月27日 | 発射試験 ミサイルテスト | 失敗 最高到達点 20マイル(32km) |
7 | AM-4 | AM-4 | 1957年12月16日 | 発射試験 ミサイルテスト | 失敗 最高到達点 63マイル(101km) |
8 | AM-5 | AM-5 | 1958年 5月18日 | 再突入試験 | 成功 最高到達点 345マイル(555km) |
9 | AM-6B | AM-6B | 1958年7月17日 | 再突入試験 | 成功 最高到達点 345マイル(555km) |
10 | AM-7 | AM-7 | 1958年8月27日 | 発射試験 ミサイルテスト | 成功 最高到達点 345マイル(555km) |
11 | AM-9 | AM-9 | 1958年10月10日 | 発射試験 ミサイルテスト | 失敗 最高到達点 0マイル(0km) |
12 | AM-13 | Bio 1 | 1958年 |
生物学的飛行試験 サルのゴードが搭乗 | パラシュート展開に失敗 最高到達点 345マイル(555km) |
13 | CM-21 | CM-21 | 1959年 1月22日 | 発射試験 戦術飛行試験 | 成功 最高到達点 345マイル(555km) |
14 | CM-22 | CM-22 | 1959年1月27日 | 発射試験 ミサイルテスト | 成功 最高到達点 345マイル(555km) |
15 | CM-22A | CM-22A | 1959年4月 4日 | 発射試験 ミサイルテスト | 成功 最高到達点 345マイル(555km) |
16 | AM-18 | Bio 2 | 1959年5月28日 | 生物学的飛行試験 サルのエイブルとベーカーが搭乗 | 成功 最高到達点 360マイル(579km) |
脚注 [ 編集 ]
-
^ 宇宙飛行士が英雄視されるようになった後の時代には、有人再突入カプセルの回収には海軍の航空母艦が出動している。設備が充実していることが重視されたこともあろうが、宇宙開発が始まったばかりのこの時代、得体の知れない実験に使用されたサルの回収には軍艦では無くタグボートのような補助艦艇で十分という事であろう。類人猿を軽侮していたと決め付けるような主観的記述は不要である。乾舷が低く自在の利く補助艦船を使用したことに不合理な点はない。 - ^ 現在のような地下サイロベースの配備やTEL車両による機動配備とは異なり、当時の弾道ミサイルの多くは野外にむき出しで配備されていた。このため落雷を受けやすくまた敵の攻撃には脆弱だった。