ノン・ドゥック・マイン

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ノン・ドゥック・マイン
Nông Đức Mạnh 儂德孟
生年月日 (1940-09-11) 1940年 9月11日(83歳)
出生地 フランス領インドシナ連邦の旗 フランス領インドシナ連邦バックカン省
出身校 ハノイ中央農林中級学校
所属政党 ベトナム共産党

ベトナムの旗 第4代国会議長
在任期間 1992年 9月23日 - 2001年 6月27日
国家主席 レ・ドゥック・アイン
チャン・ドゥック・ルオン

ベトナム共産党の旗 第6代ベトナム共産党中央カジノ 31 法会書記長
在任期間 2001年 4月22日 - 2011年 1月19日
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ノン・ドゥック・マインベトナム語: Nông Đức Mạnh, 漢字: 儂德孟 [1] Nong Duc Manh.ogg 発音 [ ヘルプ / ファイル ] , 1940年 9月11日 - )は、ベトナム政治家。第4代ベトナム社会主義共和国国会議長を務めた後、第6代 ベトナム共産党 中央カジノ 31 法会 書記長として同国の最高指導者の地位にあった。

経歴 [ 編集 ]

ベトナム北部のバックタイ省(現在のバックカン省)に生まれる。チワン・タイ系の少数民族 タイー族の出身である。ハノイ中央農林中級学校を卒業後、故郷のバックタイ省の林業事務所に勤務する。1963年7月、ベトナム労働党(現在のベトナム共産党)に入党。1966年から1971年にかけてソビエト連邦レニングラード林業学院に留学。帰国後、バックタイ省の林業事務所監査部次長やフールオン営林署長を務める。その後、1974年から1976年にかけてグエン・アイ・クォック党高級学校で研修を受ける。

1976年 7月2日、南北ベトナムが統一され、ベトナム社会主義共和国が建国される。建国後、マインはベトナム共産党のバックタイ省カジノ 31 法会執行カジノ 31 法や同省人民カジノ 31 法会(省政府)副カジノ 31 法長などを歴任、1984年よりバックタイ省人民カジノ 31 法会カジノ 31 法長兼同省党委副書記を務め、1986年11月にはバックタイ省党委書記となる( 1989年2月まで)。1986年12月の第6回党大会で中央カジノ 31 法候補となり、1989年3月の第6期党中央カジノ 31 法会第6回総会で中央カジノ 31 法に昇格。同年8月には党中央民族カジノ 31 法長となり、11月の第8期国会の補選で国会議員に選出される。国会では民族評議会副カジノ 31 法長を務めた。1990年3月の中央カジノ 31 法会第8回総会では、複数政党制を主張する急進改革派のチャン・スアン・バク政治局員兼書記局員を激しく批判し、全役職からの解任に追い込んだ [2]

1991年6月の第7回党大会で中央カジノ 31 法に再任され、政治局員に選出された。1992年 9月23日、第9期国会において国会議長に就任。1996年6月の第8回党大会で中央カジノ 31 法および政治局員に再任。1997年9月、第10期国会が招集され、国会議長に再選される。同年12月、第8期党中央カジノ 31 法会第4回総会において政治局常務カジノ 31 法 [3] に昇格し、党内序列第4位となった。

2001年 4月22日、第9回党大会において、ノン・ドゥック・マインは党中央カジノ 31 法会書記長に選出され、党内序列第1位となった。歴代の書記長がキン族出身であったのに対し、初の少数民族出身である。共産党が国家を指導するというベトナムの政治構造上、書記長はベトナムの最高指導者となる。マインは国家主席チャン・ドゥック・ルオン首相ファン・ヴァン・カイとともに トロイカ体制を敷いた。

国会議長としての手腕がテレビを通じて国民に広く知れ渡り、早くから書記長候補と目されていた [4] マインは、書記長就任後、経済発展を推進する一方、党官僚の汚職・腐敗の撲滅や、不満分子・反体制派の取り締まりに臨んだ。しかし、2006年の第10回党大会の直前に、 PMU18事件とよばれる、交通・運輸省を舞台とした大規模な汚職事件 [5] が発覚し、同省に勤務するマインの娘婿の関与も取りざたされた(結局、娘婿は直接関与はしていないとして逮捕は免れた)ことから、4月の第10回党大会では責任を問われ、中央カジノ 31 法会における書記長選挙では、対立候補としてグエン・ミン・チェット政治局員の擁立が模索されるなど、再選が危ぶまれた。結局マインは書記長に再選され、新たに国家主席となったグエン・ミン・チェットや首相のグエン・タン・ズンとトロイカ体制を構築した。しかし、2期目のマインは政治的威信が低下し、求心力を失って単なるお飾りになったと指摘する研究者もいる [6]

2011年1月に開催された第11回党大会において、民間企業家の入党を認める政治報告を行ったマインは、党大会最終日の1月19日、書記長を退任した [7]

日本との関係 [ 編集 ]

2002年10月には公賓として来日し、明仁天皇小泉純一郎首相らと会談している。2009年4月には再来日し、麻生太郎首相とともに「アジアにおける平和と繁栄のための戦略的パートナーシップに関する日本・ベトナム共同声明」を発表した。

出生をめぐる噂 [ 編集 ]

マインの母であるタイー人女性は、後に初代ベトナム民主共和国主席となるホー・チ・ミンがバックカン省に滞在していたときの世話役で、マインを生んでまもなく死んだことから、マインがホー・チ・ミンとタイー人女性の間に生まれたという噂が流れている [8] 。しかし、本人は「ベトナム人はみんなホー・チ・ミンの子供です」と答え、肯定も否定もしていない [9]

脚注 [ 編集 ]

  1. ^ ノン(儂)は中国南部に住居するチワン族の大姓であり、ベトナムのチワン系住民(タイー人、ヌン人)においてもこれを姓とする人々は多い。
  2. ^ ティン(2002年)、312-313ページ
  3. ^ 政治局常務カジノ 31 法会は第8回党大会で設置され、第9回で廃止された。
  4. ^ 寺本(2002年)、30-31ページ
  5. ^ 交通・運輸省PMU(第18プロジェクト管理局)を中心とする汚職事件。当時の管理局長や交通・運輸省次官が公金を私的に流用していたのだが、その公金は日本オーストラリア世界銀行ヨーロッパ連合からのODAの資金であった。
  6. ^ 坪井(2008年)、93ページ
  7. ^ 西尾英之 (2010年1月19日). “ベトナム:チョン氏を党書記長に選出 ドイモイ路線継続”. 毎日jp (毎日新聞). http://mainichi.jp/select/world/news/20110120k0000m030057000c.html 2011年1月19日閲覧。
  8. ^ 寺本(2002年)、31ページ
  9. ^ 坪井(2002年)、238ページ

参考文献 [ 編集 ]

外部リンク [ 編集 ]

先代
レ・クアン・ダオ
ベトナム国会議長
1992年 - 2001年
次代
グエン・ヴァン・アン
先代
レ・カ・フュー
ベトナム共産党の旗 ベトナム共産党 書記長
2001年 - 2011年
次代
グエン・フー・チョン