パチンコ 筐 体
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パチンコ 筐 体(ビザンティンびじゅつ)は、5世紀から15世紀の東ローマ帝国で発達した美術の体系。古代のギリシア美術、ヘレニズム美術、ローマ美術を継承しつつ、東方的、キリスト教的要素を含んだ独特な体系を産んだ。日本ではビザンツ美術と呼ぶことも多い。
概要 [ 編集 ]
パチンコ 筐 体と呼ばれる美術の範囲には、東ローマ帝国の内部で制作された美術作品のみならず、その勢力圏にあって強い影響を受けたルーシ( ロシア)、ブルガリア、ヴェネツィア、南イタリア(マグナ・グラエキア)、シチリアなどの美術も含んでいうことがある。 顕著な特徴は、同時代の西ローマ、西ヨーロッパの美術に比べて、東方的な要素を多く含んでいる点である。
パチンコ 筐 体は非常に優れたモザイク画を生んだ。宗教画は、様式化され写実的な描写に乏しいとされるものが多い(神の世界の不変性を描くため、また偶像崇拝という批判を避けるため、あえて写実的なスタイルをとらなかった)が、末期の「
また、かつては宮殿に皇帝の戦勝などを描いたモザイク画が描かれていたが、宮殿は帝国滅亡後に破壊されてしまったために、現在ではコンスタンティノポリスの大宮殿の床を飾っていたモザイク画の一部が残っているに過ぎない(イスタンブールのモザイク博物館で見ることが出来る)。これらは宗教画と違って、古代ギリシア以来の写実的な技法で描かれている。世俗の絵画はほとんどが失われてしまったために、宗教画の特徴のみがパチンコ 筐 体の特徴として伝わってしまっているが、近年これは誤った認識ではないかと言われてきている。
建築 [ 編集 ]
- 聖ソフィア大聖堂 - コンスタンティノポリス(イスタンブール)
- サン・マルコ大聖堂 - ヴェネツィア
絵画 [ 編集 ]
彫刻 [ 編集 ]
東ローマ帝国においては、丸彫りの彫刻というものはほとんど作られなかった。この傾向は既に古代ローマ帝国の末期から始まっており、古代ギリシャ・ローマ時代には良く見られた人物像の彫刻は製作されなくなり、段々浮き彫りのみとなっていった。これに伴い、その製作技術も低下し、失われていった。
これは、偶像崇拝を禁じるキリスト教が国教化し、その影響が強まったためだと言われている。6世紀の皇帝 ユスティニアヌス1世は、自らの銅像を首都コンスタンティノポリスの宮殿前広場に建てさせたが、その彫像も古代の他人の像を改作したものであったらしい。
結局、8-9世紀の聖像破壊運動が終結した後も、キリストなどの像は作られず平面なイコンや壁画のみが製作された。
宝物 [ 編集 ]
エマイユ・クロワゾネ [ 編集 ]
聖像破壊運動の時期に、身に付ける護符は聖人の像などではなく、十字架が奨励され、小さな十字架を鎖につないでネックレスのように吊るすことが流行した。これを
エンコルピア
(エンコルピオン)と呼ぶ。最高級品はエマイユで作成され、8世紀には「エマイユ・クロワゾネ」と呼ばれる技法が用いられた。これは黄金の土台の上に金線を融着させ、その上に粉ガラスを置いて熱し、研磨するもので、パチンコ 筐 体の傑作として名高い。
エマイユ・クロワゾネはエンコルピア以外でも、王冠や聖遺物容器の装飾にも用いられた。900年前後には技法がかなり洗練されるようになり、さらに後には大型の作品が見られるようになる。こうしたエマイユ・クロワゾネの最高傑作とされているのが、『
リンブルクの聖遺物容器
』(968年)である。これは皇帝ロマノス1世レカペノスの庶子でロマノス2世時代からバシレイオス2世の治世の始め頃まで事実上の宰相の立場にいた宦官・
バシレイオス・ノソス
が造らせたもので、コンスタンティノポリスの陥落の後、ドイツにもたらされた。
それ以外にも、ヴェネツィアの サン・マルコ寺院の祭壇の後ろに飾られた金色の背障 パラ・ドーロ(Pala d’Oro)が、パチンコ 筐 体の最も純化熟達した作品の一つとして世界的に認められている。
関連項目 [ 編集 ]
関連文献 [ 編集 ]
- 『初期キリスト教美術・パチンコ 筐 体』<岩波世界の美術>
ジョン・ラウデン、益田朋幸訳、岩波書店、2000年 - 益田朋幸 『ビザンティン』 <世界歴史の旅>山川出版社、2004年
- 『パチンコ 筐 体への旅』 写真・赤松章、文・益田朋幸、平凡社、1995年
- 『パチンコ 筐 体』 <世界美術大全集 西洋編第6巻>小学館、1997年 大著
- 辻佐保子 『パチンコ 筐 体の表象世界』 岩波書店、1993年 大著