バオ・ダイ
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保大帝 | |
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十三代皇帝 | |
保大帝
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国号 | 大南/ベトナム帝国 |
王朝 | 阮朝 |
在位期間 |
1926年
1月8日
-
1945年
3月11日(大南皇帝) 1945年 3月11日 - 1945年 8月30日(ベトナム皇帝) |
姓・諱 | 阮福永鵓→阮福永瑞→阮福晪→阮福永瑞 |
生年 |
維新7年
( 1913年 10月22日) |
没年 | 1997年 7月30日(83歳没) |
父 | 啓定帝 |
母 | 端徽皇太后黄氏菊 |
后妃 | |
陵墓 | フランス、パリ、パッシー墓地 |
元号 | 保大 : 1926年 - 1945年 |
バオ・ダイ | |
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各種表記 | |
漢字・チュノム: |
保大 阮福永瑞 |
北部発音: |
バオ・ダイ グエン・フク・ヴィン・トゥイ |
日本語読み: |
ほだい げん ふくえいずい |
バオ・ダイ(
ベトナム語:
Bảo Đại
/
保大
、
生涯 [ 編集 ]
バオ・ダイ
Bảo Đại
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1953年製
ピアストル紙幣に描かれたバオ・ダイの肖像
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生年月日 | 1913年 10月22日 |
出生地 | フランス領インドシナ連邦、富春 京城、皇城 紫禁城 |
没年月日 | 1997年 7月30日(83歳没) |
死没地 | フランス、パリ |
出身校 | パリ政治学院 |
前職 | ベトナム皇帝 |
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在任期間 | 1949年 6月14日 - 1955年 4月30日 |
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在任期間 |
1949年
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生い立ち [ 編集 ]
維新7年(1913年)10月22日に富春京城の皇城の紫禁城で生まれ、幼少期に当時の宗主国であるフランスへ留学した。出生名は永鵓( ベトナム語:Vĩnh Bột / 永鵓 )。 [1] [2]
皇帝に [ 編集 ]
啓定10年(
保大7年(1932年)に帰国し、その治世においてはフランスからの自立を目指して内政の改革などに努力した。保大9年(1934年)には、
ベトナム帝国皇帝 [ 編集 ]
第二次世界大戦末期の保大20年( 1945年)3月には、前年の親独政権ヴィシー政権崩壊に伴い、日本軍が明号作戦を実行してフランス軍を制圧したことを受け、フランスからの独立を宣言してベトナム帝国を樹立し、その皇帝となった。
当時の日本軍人の中には、日本へ亡命中の畿外侯彊㭽をベトナム帝国皇帝に推す者も少なくなかったが、南方総軍や第38軍はベトナム新政権に不干渉の方針で、軍政を敷かないことや親日政権への改編をしないことを既に決定していたため、保大帝は独立したベトナムの最初の元首の地位を手にした。
ベトナム民主出 金 し やすい カジノ政府最高顧問 [ 編集 ]
しかし日本が敗戦すると、その直後にベトナムでは八月革命が起こり、バオ・ダイは革命の指導者であるホー・チ・ミンがそれまでも「伝説の革命家」として有名であった「阮愛國(グエン・アイ・クック)」であることに衝撃を受けた [3] 。
保大帝はファム・カク・ホエ官房長官の後押しもあって自らの庇護を条件に8月30日に正式に退位し、9月2日にはベトミンによってホー・チ・ミンを国家主席とするベトナム民主出 金 し やすい カジノの独立宣言がハノイでなされた。バオ・ダイはベトナム民主出 金 し やすい カジノ政府の最高顧問に任命された。
亡命 [ 編集 ]
その後、左傾化してゆくベトナム民主出 金 し やすい カジノ政府での自らの地位に危機感を覚え、政府の公式の外交代表団の一員として中華民国の北京を訪問時に亡命し、1946年にはイギリス 植民地の香港へ渡った。
元首に [ 編集 ]
ベトナムでは1946年にフランス連合とベトナム民主出 金 し やすい カジノの間で第一次インドシナ戦争が勃発したが、バオ・ダイは 1949年にベトナムへ帰国し、フランスの支援により南ベトナムの コーチシナ出 金 し やすい カジノを吸収して樹立されたベトナム国の元首となった。
第一次インドシナ戦争の講和協定として、1954年にジュネーヴ協定が成立すると、ベトナム国は国際的な承認を得てバオ・ダイは名実ともにその元首となった。
廃帝 [ 編集 ]
バオ・ダイは、1954年に
その結果ジエムは勝利しベトナム国を共和制へと移行させ、ベトナム出 金 し やすい カジノを樹立してその大統領に就任した。事実上のクーデターであった。
亡命と死去 [ 編集 ]
1955年4月に廃位されたバオ・ダイはフランスの
ベトナム戦争の激戦が続く1972年には、ベトナム戦争の終結と南北の和解を呼びかけていた。ベトナム統一後もフランスに住み続け、1997年 7月30日にパリの陸軍病院で死去した。
宗室 [ 編集 ]
后妃 [ 編集 ]
子女 [ 編集 ]
嫡子女 [ 編集 ]
- 東宮皇太子
バオ・ロン(
Đông cung Hoàng thái tử Nguyễn Phúc Bảo Long
、
1936年 - 2007年) - 公主阮福芳梅( Công chúa Nguyễn Phúc Phương Mai 、1937年-2021年)
- 公主阮福芳蓮( Công chúa Nguyễn Phúc Phương Liên )
- 公主阮福芳蓉( Công chúa Nguyễn Phúc Phương Dung )
- 皇子バオ・タン( Hoàng tử Nguyễn Phúc Bảo Thắng 、1943年 -2017年)
庶子女 [ 編集 ]
- 黎氏飛映所生
- 阮福芳明( Nguyễn Phúc Phương Minh )
- 阮福保恩( Nguyễn Phúc Bảo Ân )
- 裴夢蝶所生
- 阮福芳草( Nguyễn Phúc Phương Thảo )
- 阮福保隍( Nguyễn Phúc Bảo Hoàng )
- 阮福保山( Nguyễn Phúc Bảo Sơn )
- フランス人女性ヴィッキー所生
- 阮福芳慈( Nguyễn Phúc Phương Từ )
保大通宝の発行 [ 編集 ]
保大帝は保大8年(1933年)にフランスより帰国後親政を始め、そのさい歴代皇帝の例に倣い治世の年号を冠した新たな銅銭を鋳造した。これが保大通宝( Bảo Đại thông bảo )である。大別して2種類の形式があり、一つは直径約27mm、重量3.5gから4.5gで、裏に十文( thập văn )の換当価の表示があるもの。もう一つは直径約24mm、重量約3gで裏無地のものである。これは六文に相当した。これらは円形方孔の、いわゆる穴あき銭の形態をしており、東アジア諸国において2000年以上にわたって作られ続けたこの形式の貨幣としては世界最後のものである [4] 。
当時、皇帝の地位は名目的なもので、ほとんどの政治的権限はフランスによって奪われていたが、従来からあった伝統的な穴あき銭を発行する権限は保持していたのである。フランス人がサペックと呼び、安南の民がドン(
đồng
、銅)またはテンドン(
tiền đồng
、銭銅)と呼んでいたこれらの貨幣は、
翌保大9年(
一方、インドシナ植民地政府の側でも、保大帝による新銅貨発行と時を同じくして北部のトンキンにおいて保大通宝の銘が刻印された打製の銅貨を発行し流通させた。これは直径18mm重量1.4gであり、600枚で1ピアストルと等価とされた。また、打製の保大通宝の中に、直径が26mm程度の大型銭(古銭収集界で活字体と呼ばれているもの)が僅かながら存在するが、これは試作貨であると言われている [6] [7] 。
脚注 [ 編集 ]
- ^ 《大南寔録正編第六紀附編》巻二十六 維新七年十月 賜奉化公房命名従鳥字部条:“賜奉化公(卽奉晋尊弘尊宣皇帝)房命名従鳥字部。初於月前二十三日,公府長子(卽奉今上皇帝)生,府中有五色鳥鳴之祥(事詳《弘尊宣皇帝玉牒》),至是週月命名,准以鳥字賜部命名焉。”
- ^ 《大南寔録正編第七紀》巻一 啟定元年五月 賜皇長子名永瑞条:“賜皇長子(卽奉今上皇帝)名永(左従玉右従耑)。初従鳥部字命名永鵓,至是改従帝系賜玉部字今名。”
- ^ ファム・カク・ホエ『ベトナムのラストエンペラー』70-76頁、白石昌也訳、平凡社、1995年。 ISBN 4-582-37333-X
- ^ 雲南省銭幣研究会・広西銭幣学会編 『越南歴史貨幣』 中国金融出版社 1993
- ^ 丁英生 「太平洋戦争下 東南アジアコインに見るサイン」 月刊『収集』Vol.19 No.11 書信館出版(株) 1994
- ^ BELAUBRE Jean, "Un technicien méconnu du monnayage : René Mercier et la sapèque Bao Dai, 1933". Bulletin de la Société Française de Numismatique, avril 1980, n°4, pp. 685-687.
- ^ 三浦吾泉 『安南銭譜 歴代銭部』 私家版 1966
参考文献 [ 編集 ]
- ファム・カク・ホエ『ベトナムのラスト・エンペラー』白石昌也訳、平凡社「20世紀メモリアル」、1995年
関連項目 [ 編集 ]
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